第71回日本史講座のまとめ③(農地改革と財閥解体)

2 農地改革と財閥解体
1)農地改革
 敗戦後の農民運動の発展は、崩壊のきざしをしめす地主制に最後の一撃を与えようとしていた。1945年11月、幣原内閣は、農民運動をおさえて、食料の供出を確保するため、在村地主の所有限度を5町歩(約5ha)とし、小作料は金納とする農地改革草案を作成した。しかし、この案では、全小作地254万町歩のうち95万町歩しか解放できず、徹底した農地改革を求める総司令部は、これに賛成せず小作料の金納性以外は実施されなかった。(第1次農地改革)再検討を指示された政府は、1946年、自作農創設特別措置法と第2次農地調整改正法を成立させた。これにより、地主の所有限度は小作地1町歩、自作地と小作地の合計は3町歩に制限され、これをこえる分は政府が買い上げて、小作農民に安く売り渡すという第2次農地改革が実施された。
 第2次農地改革は1947年に開始され1950年に終了した。その結果、寄生地主制が解体され自作農が創設され、農村の購買力が向上し、経済の活性化がはかられた。しかし、山林や水利権は解放されず、それを持っていた地主は没落をまぬがれて農村では相変わらず支配的な地位を確保した。
2)財閥解体
 総司令部は戦前の労働者の低賃金を問題視し、経済の民主化をはかった。また、日本を再びアメリカの脅威にさせないためにも経済の抑制も兼ねて1945年、総司令部は四大財閥(三井・三菱・住友・安田)の解体を命令した。四大財閥本社は、解体指定時で当時の日本の公称資本総額の18.7%を占める企業を直接に支配し、さらにこれら直系企業が支配する孫会社まで含めると、日本の資本の約4分の1を支配していた。特に、銀行資本では、全国銀行資本の約48%が四大財閥の支配下にあった。
 総司令部は持株会社の解体を要求したため、1946年4月、政府は持株会社整理委員会令を公布し、あらたに23の財閥本社を解体させた。財閥の復活を防ぐため、1947年4月に独占禁止法が公布され、12月には過度経済力集中排除法が施行されたが、米ソの対立が激化するにつれて緩められ、分割を指定された325企業のうち、分割が実施されたのはわずか11社のみであった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
次回の第72回日本史講座は、2月10日(土)午後2時より行う予定です。
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by YAMATAKE1949 | 2018-01-31 10:28 | 日本史講座 | Comments(0)