第57回日本史講座のまとめ④(日比谷焼き打ち事件と桂園時代)

3 日比谷焼き打ち事件と桂園時代
1)日比谷焼き打ち事件
 日露戦争で日本は約110万の兵力を動員し、死傷者は20万を越すという大きな損害を出した。また、戦費は国力をはるかに越える金額であったため、およそ7割を外国債や約6億円の国債・献金でまかなわれた。残りは、地租や所得税などの増税、織物消費税や通行税などの間接税の新設、たばこや塩の専売制の実施などによってまかなったが、これは国民に重い負担を強いるものであった。
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(三省堂「日本史B」より)
 日本の戦争継続能力について真相を知らなかった多くの民衆は、ポーツマス条約によって日本に賠償金が得られないことがわかると、耐乏生活を強いられた民衆の不満は大きく、各地で講和反対の集会を開いた。なかでも、ポーツマス条約調印当日の9月5日、東京の日比谷公園で開かれた講和条約反対国民大会に参加した都市民衆らは、集会後に内務大臣官邸や交番、政府系の国民新聞社を襲撃するなど激しく行動した。いわゆる日比谷焼き打ち事件である。桂内閣は、戒厳令をしいて軍隊の力でようやくこれをしずめた。
2)桂園時代
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 日露戦争後の1906年、桂首相は内閣へ不満が広がることを恐れ、伊藤博文に代わって立憲政友会総裁となった西園寺公望(さいおんじきんもち)に政権をゆだねた。この後、第1次西園寺内閣から1913年の大正政変で第3次桂内閣が倒れるまで、桂と西園寺が交代で内閣を組織するいわゆる桂園時代が訪れた。
 日露戦争後、軍部が中心となって大規模な軍備拡張計画が立案された。それは帝国国防方針というもので、陸軍はロシア・フランスを仮想敵国として17個師団を25個師団に増強し、海軍はアメリカに対抗して戦艦・巡洋戦艦各8隻を中心とする大艦隊を建設するというものであった。軍部はこの計画を西園寺内閣に無断で天皇に許可をえ、1908年には軍隊の作戦や用兵には内閣に介入させない制度を整えた。さらに1910年には、現役を終えた軍人を帝国在郷軍人会に組織して軍部の基盤を強化した。
 次回の第58回日本史講座は4月22日(土)午後2時より行う予定です。
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by YAMATAKE1949 | 2017-04-20 09:37 | 日本史講座 | Comments(0)