第74回日本史講座のまとめ③(岸内閣の成立)

6 岸内閣
1)岸内閣の成立
 1956年、鳩山内閣は日ソ国交回復と日本の国連加盟が実現すると病気のため退陣し、石橋湛山(たんざん)内閣が成立した。しかし、組閣後わずか1か月で病気でたおれて辞職し、岸信介が後継首相となった。彼は旧満州国の植民地支配の実力者として君臨し、東条内閣の閣僚として宣戦の詔書に署名したA級戦犯であったが、日本は戦後わずか12年目に、彼を首相の座に就くことを許してしまったのである。
2)逆コースの時代へ
 戦後の日本は民主的な社会をめざしたが、岸内閣の政策は民主化とは逆の政策を実施していった。
 岸首相は1957年5月に東南アジア6か国を訪問した。太平洋戦争中、日本の侵略で迷惑をかけたことのお詫びと、親善を深めることがその表向きの理由であったが、日本経済の東南アジア進出の準備工作がその大きな目的であった。東南アジア各国の賠償要求額は著しく高かったが、アジアでの日本の役割を重視するアメリカの要求で軽減され、その多くは道路建設や水力発電所建設などで支払うことになった。
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(三省堂「日本史B」より)
 国内では、政府は平和運動や反基地闘争に対して強い姿勢で臨んだ。なかでも、地域と強く結びついて平和運動をおこなっていた日教組への規制を強めた。1956年に教育委員会を公選制から首長による任命制にかえ、同時に、教職員への勤務評定制度の導入を決定していたが、岸内閣は1958年から全国で実施しようとしたため、激しい反対運動が広がった。さらに、警察官の権限を拡大するために国会に提出していた警察官職務執行法(警職法)の改正案が、警職法反対国民会議などの広範な国民の反対運動にあって改正を断念した。
 こうした対立のなかで、岸内閣が同時に進めていた安保条約の改定に対して、アメリカが行う戦争に日本が巻き込まれるのではないかという恐れが国民の間に広がった。1959年には社会党・共産党や労働組合、学生、市民ら多くの国民が参加して安保改定阻止国民会議が結成され、安保反対運動が急速に盛り上がっていった。

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by YAMATAKE1949 | 2018-03-14 09:55 | 日本史講座 | Comments(0)