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第75回日本史講座のまとめ③(日韓条約・ヴェトナム戦争と日本)

4 日韓基本条約・ヴェトナム戦争と日本
1)日韓基本条約
 1960年代に入ると、日本は賠償事業を通して経済進出をはかった東南アジア諸国へ、新たに経済援助や借款の供与を行って輸出を拡大していった。1961年、池田首相はインドなどの4か国を訪問し、1962年に政府間で経済援助と借款の供与を取り決め、その額を急増させていった。
 韓国との間では、1951年以来、国交正常化のための日韓交渉が続けられてきたが、交渉は難航していた。それは日本の謝罪・賠償問題さらに李承晩ライン(リーライン)とよばれる問題があった。リーラインとは韓国初代大統領・李承晩が周辺諸国との間に設定した海洋境界線のことである。アメリカは韓国政府にリーラインを認めることはできないと勧告したが、韓国政府はこれを無視し、日韓条約が締結されるまで、日本の漁船はのべ328隻、漁師3929人が拘束された。さらに領土帰属問題(日本名は竹島、韓国名は独島)、さらに在日韓国人の法的地位問題で交渉は長期化した。
 アメリカの東アジア政策での要請もあり、また1961年に軍人の朴正煕(ぼくせいき)がクーデターによって政権をにぎり、工業化を行って経済成長を進める方針を打ち出すと、交渉は一挙に進んだ。日韓両国では激しい反対運動が広がるなか、1965年に調印し国交が結ばれた。日本では、すでにヴェトナム派兵を決めていた韓国政府との国交正常化は、日・韓・米の軍事的関係を強化すること、南北分断をを恒久化することなどから反対運動が展開された。一方、韓国では、謝罪・賠償はなく、国家間の賠償・補償問題は解決済みとされたことにより強い反発があった。この条約による協定で、韓国が対日賠償請求権を放棄する代わりに、日本が総額8億ドル以上の資金を提供することが決められ、東南アジアと同じように日本企業の韓国進出が進むことになった。
2)ヴェトナム戦争と日本
 1965年、アメリカは南北間で対立が続いていたヴェトナムに本格介入した。さらにタイなどの東南アジア諸国や韓国などは軍隊を派遣し、周辺諸国はアメリカ軍の拠点になるなど周辺諸国を巻き込む戦争となり、これらのアジア諸国を経済的に支えることが日本に求められるようになった。
 佐藤内閣は、アメリカのヴェトナム介入を支持し、積極的な支援をはかった。また、1965年におこった不況で終わるかに見えた高度経済成長は、一挙に輸出を拡大し、いち早く立ち直った。
 しかし、ヴェトナム戦争と在日米軍基地とが深いかかわりをもったために政治問題化し、政党や労働組合の枠を超えたヴェトナム反戦運動が全国に広がった。なかでも沖縄では、B52戦略爆撃機が北ヴェトナム爆撃に向かったり、海兵隊も出撃していったため、出撃基地として基地問題が深刻化した。このため、基地を撤去し日本復帰を求める祖国復帰運動が広がっていった。そして政府間交渉の結果、1971年、沖縄返還協定が締結され、1972年に沖縄の日本復帰を実現した。しかし、日本政府は1967年に核兵器を「つくらず・もたず・もちこませず」という非核三原則を宣言していたが、返還にあたって、沖縄の嘉手納基地への核持ちこみが明らかとなり問題とされた。また、返還後も米軍基地は残されたままであり、米兵による少女暴行事件や米軍機の墜落事故など沖縄住民の犠牲は今も深刻である。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 第76回日本史講座は、4月14日(土)午後2時より行う予定です。

by YAMATAKE1949 | 2018-03-28 10:47 | 日本史講座