「満州事変・日中戦争と中国の抵抗、イタリアのエチオピア侵略」をどう教えるか。③

3 日中戦争と民族統一戦線
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資料④A(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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資料④B(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
問⑫ 資料④Aの写真は日本軍が中国の首都南京を占領した写真である。さて、日本軍が中国との全面戦争を始めるきっかけとなった事件は何ですか。なぜ日本軍は中国との全面戦争に突き進んでしまったのかを考えてみよう。
問⑬ 資料④Bは南京占領時に日本軍が行った蛮行の写真であるが、これは何と呼ばれているか。また、何人の人達が犠牲となったのか。また、なぜこのような蛮行が行われたのかを考えてみよう。
(解説)
 1937年7月7日、北京郊外で日中両軍が衝突した盧溝橋事件が起きると、日本軍は華北の支配をねらって戦火を拡大した。これに対抗して中国では、第2次国共合作が発表され抗日民族統一戦線が成立した。日本は、満州事変と同じように中国を簡単に屈服させることができると考えていたが、中国の抵抗は強力であった。日本軍は北京と天津を、8月には上海を占領したが、中国国民の抵抗は激しく、国民政府の首都である南京占領にさいし暴行・略奪と蛮行を繰り返したがこれを南京事件(南京大虐殺)と呼ぶ。その犠牲者の数については諸説あるが、日本の歴史学者の中には、4万人、あるいは20万人をくだらない数をあげているが、中国側は30万人以上としている。また、犠牲者には捕虜や婦女子など無抵抗の非戦闘員も多かった。このような蛮行が行われた背景には、日本軍の補給は現地調達で賄うという日本軍のやり方があるとともに、日本軍の中には中国人の人権を無視する差別意識があったのではないかと思われる。このような蛮行に対し、世界から強い非難をあびたが、日本国民は敗戦までこの事実を知らされなかった。南京を占領して勢いにのる日本は、1938年、中国政府を交渉相手にしないという声明をしたが、実際にはおもな都市と鉄道線を確保する点と線の支配でしかなかった。中国政府は武漢からさらに重慶に首都を移して抗戦を続け、広大な農村地帯には共産党軍が農民に支持を広げて抗日根拠地をきずいていった。さらに、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の各国は、ヴェトナム・ビルマなどからの援蒋ルートをとおして中国政府支援を強化していった。そのため、日本は軍事的にも経済的にも戦争の継続が困難となり、1940年には国民党副総裁だった汪兆銘によるかいらい政権をつくって打開に努めたが、支持は広がらず、日中戦争は泥沼状態におちいり、国際的にも孤立していった。

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by YAMATAKE1949 | 2018-11-15 09:04 | 授業実践 | Comments(0)