2016年 11月 30日 ( 1 )

3 廃藩置県
1) 版籍奉還
 新政府は戊辰戦争後、旧幕府領や幕府側に味方した諸藩の領地を没収して直轄地とし府県を置いたが、それ以外は依然として藩の支配が続いていた。しかし、列強の圧力のもとで近代国家を形成するには、中央集権体制を樹立することが必要であった。
 1869年1月、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主の土地と人民を天皇に返還する版籍奉還の願いを提出させ、諸藩主もこれにならうということになった。そして、全藩主を改めて知藩事に任命し、新政府から給与として家禄を与えられる地方官と位置づけられた。しかし、知藩事が家臣を持ち藩を運営することにかわりはなかった。
2) 廃藩置県
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 新政府は、薩摩・長州・土佐3藩の兵を親兵(近衛兵)として反乱に備えたうえで、1871年7月、廃藩置県を断行し、藩を全廃して府・県を置き、知藩事は罷免して東京居住を命じ、新たに府知事・県令を任命して中央から派遣して行政にあたらせた。
 廃藩置県が円滑におこなわれたのは、すでに諸藩は財政的に行き詰まっており、藩の負債を肩代わりしたこと、藩士への家禄支給を保証したこと、さらに大規模な世直し一揆を一つの藩だけでおさえることが困難になっていたためである。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 地方行政組織の整理
 これによって、1869年に蝦夷地に設置していた開拓使とあわせて、地方行政組織は府(東京・京都・大阪)、県、開拓使の三つに整理された。最初に3府302県が置かれたが、大幅な分離統合によって、1888年には3府43県となった。
4) 中央官制の改革
 さらに政府は中央官制の改革をおこない、太政官の下に正院(せいいん)・左院・右院を置き、正院のもとに各省をを置くように改め、太政官の権限を強化して中央集権的な官僚機構を調えた。これにより三条や岩倉らの一部の公家のほか、大久保・木戸・板垣・大隈ら薩長土肥の旧藩出身者らが中央政府を構成するようになった。
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