3 ドッジ・ラインと占領政策の変更
1)ドッジ・ライン
 経済安定9原則を具体化するために来日したアメリカのドッジ公使は、総司令部経済財政最高顧問として、1949年度予算の編成を自ら行って日本政府に押し付けた。この予算は赤字歳出を全く許さない超均衡予算であった。ドッジは記者会見で、「日本の経済は両足を地につけていず、竹馬に乗っているようなものだ。竹馬の片脚はアメリカの援助、他方は国内的な補助金の機構である。竹馬の脚をあまり高くしすぎると転んで首を折る危険がある。今ただちに縮めることが必要だ」と語った。(小学館「日本の歴史31 戦後変革」より)彼は、企業の国際競争力を高めるためには大規模な人員削減もやむをえないという基本方針で、これをドッジ・ラインと呼ばれた。そして、政府による復興金融金庫への融資停止、補助金・失業対策費の削減、徴税の強化などによって、赤字であった政府財政をいっきょに黒字に転換させた。この時、1ドル=360円という固定相場制が決定され、日本は経済的にもアメリカと強く結びつくことになった。
2)シャウプ勧告
 さらにアメリカの経済学者シャウプは、国民への課税を強化する一方、企業の発展を促すために企業にかける法人税を軽くするという、租税制度の改革を勧告した。この勧告は、所得税などの直接税中心の徹底化、資本蓄積のための減税措置、地方税の独立、補助金をやめて平衡交付金制度に改める内容であったが、権限をともなう行政事務の市町村への再配分についての勧告は軽視された。
3)労働運動の激化と占領政策の変更
 この結果、インフレーションはおさまったが、行財政の整理と企業整理によって、企業倒産が増えて大量の失業者が生まれ、不況が日本社会をおおった。この不況はドッジ不況と呼ばれ、日経平均株価は、85,25円となり、史上最安値を記録した。さらに労働者の雇用条件を悪化させたため、国鉄労働組合や民間の労働組合などで激しい反対闘争が起こった。
 しかし1949年の下山事件・三鷹事件・松川事件が組合活動家らの犯行と宣言され、これらの事件を利用して、10万人にのぼる国鉄などの人員整理が強行されたため、反対闘争は挫折をよぎなくされた。これらの事件の背景には総司令部が関わっていたのではないかという意見が、松本清張の「日本の黒い霧」などに出されている。私は、松川事件で死刑囚となった人物の講演を聞いたことがある。彼は犯行の当日には警察に留置されており、アリバイがあることは警察が一番よく知っていたはずであるが、警察はそのことを一切秘密にしていた。幸い松川事件は全員無罪となったが、その話を聞いて私は警察権力の恐ろしさを思い知った。
 また、事件以後、共産党員らを官公庁から排除するレッド・パージが行われ、労総組合も総司令部の援助を受けた反共勢力が主流となり、1950年に日本労働組合総評議会(総評)が結成された。一方、この頃から公職追放されていた政治家や官僚らが次々と追放を解除され、政界に復帰していった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 次回の第73回日本史講座は、2月24日(土)午後2時より行う予定です。
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