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カテゴリ:旅行記(海外)( 296 )

チェ・ゲバラ霊廟には、彼の幼少期からの写真や彼に関する遺物が沢山陳列されていた。
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(チェ・ゲバラ霊廟)
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(チェ・ゲバラ霊廟)
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(霊廟前の広場)
 チェ・ゲバラは、1928年6月にアルゼンチン第2の都市ロサリオで裕福な家庭に生まれた。1948年にブエノスアイレス大学医学部に入学したが、学生時代にバイクで南米の放浪を行っている。1953年に医学部の免許を取得したが、ペロン政権下で軍医になることを避け、2回目の南米放浪を行って1954年にメキシコに亡命した。1956年にメキシコ亡命中のフィデル・カストロと弟のウラル・カストロと出会って意気投合し、キューバのバチスタ政権に対する反独裁闘争に参加することを承諾する。1957年、反乱軍の第2軍の指揮官として活躍し、1959年にバチスタが国外逃亡してキューバ革命は成功した。彼はキューバの国立銀行総裁に就任したが、アジア・アフリカの親善大使として来日し、このとき、広島市の原爆資料館を訪問し、「アメリカにこんな目に遭わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなりになるのか」と案内人に語ったといわれている。その後、工業大臣にも就任したが、1965年に国際的な革命闘争に参加するためキューバを離れ、各国を転々としたが、1967年にボリビアで捕らえられ処刑された。わずか39歳であった。(ウィキペディア参照)
 チェ・ゲバラ霊廟を見学した後、私たちはバスでサンタクララの市内へと向かった。15分ほどでサンタクララの市内に入ったが。町の中心部にあるビルには、キューバ革命のときにバチスタ政府軍が立てこもったビルがあり、そのビルには今も銃弾の跡が残っていた。
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(銃弾の跡が残っているビル)
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(サンタクララの中心街)
 サンタクララの町の中心街にはビダル公園があった。
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(ビダル公園)
 公園の横をヤギが引っ張っている車にたくさんの子供たちが乗っていた。
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(ヤギが引っ張っている車)
 次に私たちはバスで「列車襲撃跡」へと向かった。
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(列車襲撃跡)
 「列車襲撃跡」は、1958年12月29日にチェ・ゲバラ率いる革命軍が、革命軍鎮圧のために武器を輸送していた政府軍の列車を襲撃して成功したことを記念して設けられたモニュメントである。革命軍はブルドーザーで線路を破壊し脱線させて多くの武器を奪い、キューバ革命を成功に導く転機となった事件である。
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(列車襲撃に使われたブルドーザー)
 モニュメントに使われている列車は、襲撃当時そのままの列車である。
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(襲撃当時そのままの列車)
 鉄道は今も活用されており、私たちが見学していた時間に列車が通っていったが、びっくりするくらいゆっくり通り過ぎていった。
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(今も使われている列車)
 次に私たちはバスでカピーロの丘へと向かった。この丘にはバチスタ政権軍の砦があったが、チェ・ゲバラ率いる革命軍がこれを奪い、ここを拠点としてチェ・ゲバラは作戦を立てたといわれている。私たちは歩いて丘の上に登った。
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(丘の上に登る)
 丘の上には革命を記念するモニュメントとキューバ国旗があった。
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(モニュメントとキューバ国旗)
 丘の上からはサンタクララの町が綺麗に見えた。
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(丘の上から見た景色)
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(丘の上から見た景色)
 カピーロの丘がキューバ観光の最後となり、その後バスでハバナに戻った。翌朝、ハバナからトロント、を経由して羽田、そして伊丹空港に到着したのは3月11日の午後9時前であった。
 最後まで「キューバ旅行記」をご覧いただいて誠にグラシャス(ありがとう)。それでは皆さんアディオス(さようなら)。
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(お土産にキューバで買ったラム酒)
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(お土産にキューバで買ったコーヒーと蜂蜜)
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(お土産にキューバで買ったチョコレート)
 
(観光3日目)
 私たちは、午前8時にトリニダーのホテルからバスでロスインヘニオス渓谷に向かって出発した。
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(私たちが宿泊したトリニダー デルマール ホテル)
 キューバの先住民は、1492年のコロンブスの遠征以降、ここをインドの一部であると間違えたコロンブスによってインディオと呼ばれた。先住民はスペインの支配に抵抗したが、1511年にスペインのベラスケスが率いる遠征隊により完全に征服されてしまった。その後、先住民は虐待や強制労働やスペイン人がもたらした疫病により絶滅した。先住民が絶滅した後には、奴隷として大量のアフリカ人が連れてこられた。その結果、キューバではスペイン人とアフリカ人の混血が多く、キューバ人の75%はムラートと呼ばれる混血で、ヨーロッパ系が21%、アフリカ系が3%、アジア系が1%だとガイドさんが教えてくれた。キューバでもやはり人種的な差別がある。ヨーロッパ系が好まれる傾向があり、混血でも色の白い方が好まれる。しかし、一方でアフリカ系の人たちはプライドが高く、目立つ色の服を好むらしい。
 私たちのバスは、約30分ほどでロスインヘニオス渓谷に到着した。この渓谷は、18世紀末~19世紀末まで砂糖生産の中心地であった。キューバにおけるサトウキビ生産の絶頂期には、渓谷では50以上の製糖工場が稼動し、3万人もの黒人奴隷が工場や周辺のサトウキビプランテーションで働かされていた。(ウィキペディアより)この渓谷は、1988年に世界遺産に登録された。
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(渓谷からの眺め)
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(渓谷からの眺め)
 私たちはここで、サトウキビからとれたジュースをいただいた。
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(サトウキビのジュースを配っている)
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(サトウキビを絞る機械)
 ここには有名なイスナガタワーと呼ばれる塔があった。
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(イスナガタワー)
 この塔は、サトウキビ農園主であったイスナガが建てさせたものである。塔はサトウキビプランテーションを360度見渡すことができ、奴隷たちを監視するのに使われていた。同時に、一時はキューバで最も高い建造物であったこの塔は、奴隷たちや製糖業界にイスナーガ家の権勢を見せ付ける象徴としても機能していた。かつては塔にあった大きな鐘は奴隷たちに一日の労働の終わりを告げていたが、その鐘は現在塔の下に置かれている。(ウィキペディアより)
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(イスナガタワー)
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(労働の終わりを告げた鐘)
 私たちはロスインヘニオス渓谷の見学を終えて、バスでサンタクララへと向かった。サンタクララの町はコロンブスによって開かれ、ヨーロッパ人によって最初に開発された都市である。17世紀には スペインの植民地統治の中心地となったが、特に砂糖とタバコ産業で大いに繁栄した町である。キューバ革命でチェ・ゲバラによって解放された町としても有名で、現在チェ・ゲバラ霊廟がある。
 私たちのバスは約1時間30分かかってサンタクララに到着し、最初にチェ・ゲバラ霊廟を見学した。
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(チェ・ゲバラ霊廟)
 霊廟には大勢の観光客がつめかけており、ゆっくりと見学はできなかった。しかも霊廟内での撮影は禁止されていた。
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(チェ・ゲバラ霊廟)
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(チェ・ゲバラ霊廟)
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(チェ・ゲバラ霊廟)
 キューバではチェ・ゲバラの人気は高く、紙幣やコインの肖像にも使われており、ガイドさんから彼の肖像が描かれた紙幣とコインをお土産にもらった。
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(チェ・ゲバラの肖像が描かれた紙幣)
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(チェ・ゲバラの肖像が描かれたコイン)
 
トリニダー市内観光を終えて、私たちはバスで「トリニダー デルマール ホテル」と呼ばれる豪華なホテルに30分ほどかかって到着した。
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(ホテルに到着)
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(ホテルの内部)
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(ホテルの庭)
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(ホテルの庭)
 ガイドさんが、ホテルに着いたらぜひカリブ海の夕日をご覧になってくださいと話していたので、私は友人とすぐにカリブ海の夕日を見に行った。
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(ホテルの庭からカリブ海へと続く景色)
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(ホテルの庭からカリブ海へと続く景色)
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(木の間から夕陽が見える)
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(カリブ海の夕日)
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(カリブ海の夕日)
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(カリブ海の夕日)
 夕食後、午後9時から歌やダンスのショーが行われた。
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(プールサイドでショーが行われた)
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(夜のショー)
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(夜のショー)
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(夜のショー)
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(夜のショー)
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(夜のショー)
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(夜のショー)
 ショーが終わり、キューバ観光の二日目が終わった。

 ホセ・マルティ広場から海岸に向けてプラド通りが続いており、道路の中央には民芸品売り場が並んでいた。
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(プラド通り)
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(プラド通り)
 その後、私たちはカリブ海に面した豪華な建物のレストランでランチを食べた。
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(カリブ海)
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(カリブ海)
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(豪華な建物のレストラン)
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(豪華な建物のレストラン)
 食後、私たちはバスでパラシオ・デ・バジェと呼ばれるシエンフェゴスの観光名所に立ち寄った。この建物は1913年~1917年にネオゴシック様式をベースに、アラブやイタリアなど様々な国の建築様式を取り入れたものである。 当初は邸宅として使用されていたが、ホテルやカジノなど時代と共に用途も変化して、現在はレストランとして運営されている。
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(パラシオ・デ・バジェ)
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(パラシオ・デ・バジェ)
 パラシオ・デ・バジェを見学した後、私たちはバスで約2時間近くかかってトリニダーに到着した。この町が建設されたのは1514年と古く、砂糖産業で栄えた町であり、その古い町並みは1988年に世界遺産に登録された。トリニダの旧市街は、可愛らしい丸石の敷き詰められた街路や、精巧に作り上げられた格子窓を具えたパステルカラーの住宅が並んでいた。
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(丸石の式部められた街路とカラフルな住宅)
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(丸石の式部められた街路とカラフルな住宅)
 トリニダーの町の中心にマヨール広場がある。昔、ここはサトウキビの取引や奴隷の売買が行われた場所であった。
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(マヨール広場)
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(マヨール広場)
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(マヨール広場)
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(サンティシマ教会)
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(奥に見える塔は革命博物館)
広場の前にはきれいな花が咲いている木があり、その下は野外の喫茶店となっていた。
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(野外の喫茶店) 私たちはお店に入って、キューバの生演奏を聴きながら冷たい飲み物をいただいた。
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(生演奏を聴きながら冷たいものをいただいた) 1時間の自由時間があったので、私は友人と二人で市立歴史博物館の塔に登ることにした。
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(塔の上から見える景色)
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(塔の上から見える景色)
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(塔の上からカリブ海が見える)
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(塔の上から見える景色)
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(私たちが登ってきた塔)
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(市立歴史博物館) 
(観光2日目)
 翌日の3月8日は女性の日となっており、朝食時に女性は花をもらい男性は葉巻をもらった。現地ガイドのユリさんも今日は女性の日ですよと教えてくれた。1904年3月8日のニューヨークで女性労働者が婦人参政権を要求してデモを起こしたことから、国際婦人デーとされたとのことである。
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(朝食時にもらった葉巻)
 私たちは午前8時に、バスでハバナからシエンフェゴスへと向かった。ハバナから約250㎞で、人口は約15万人である。この都市は「南の真珠」と呼ばれているが、「シエンフェゴス」とは言葉通りに訳すと「百の火」である。都市はフランス系移民によって、1819年に建設された集落から始まった。集落は1830年に都市になったが、のちに島の総司令官の名前にちなんでシエンフェゴスと呼ばれるようになった。だからこの町はフランス的な雰囲気を持っているといわれている。
 トイレ休憩で立ち寄ったお店で、ゲバラのTシャツを買った。日本でも売っているらしいが、せっかくキューバに来たのだから現地で買いたかった。
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(ゲバラのTシャツ)
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(ゲバラのTシャツを買ったお店)
 バスの中で、ガイドのユリさんは、キューバについてどんなことでも聞いてくれということで、私たちはいろんな質問をしたが、その答えを手帳にメモしたのでそれを書いていこう。
 日系人は、イスラ・デ・ラ・フベントゥ(青年の島)という島に多く住んでおり、日系移民は1%と教えてくれたが、ネットで確認すると0.01%となっていた。どちらが正しいのか。また、キューバ人にとって日本人も中国人も韓国人も区別がつかないらしく、日系人もチノー(中国系)と呼ばれているらしい。それは、ペルーでも同じで、ペルーの元大統領であったフジモリもみずからをチノーと呼んでいた。
 キューバはワイロ社会で、ガイドになるためにワイロを払った。
 一般的にキューバ人は子供を2~3人持っている。キューバ人は男女ともセックスが強く、ピルは無料で政府から配給されているが、13~14歳で子供を産む。結婚前のバージンはありえない。セックスの相性もわからないで結婚できないとのことである。
 18歳で選挙権があるが、キューバには政党はない。しかし、ネットで調べると、キューバ共産党は存在しており、その他の政党は認められていない。
 教育は、小・中・高は日本と同じで、大学は5年制(医学部は7年)であり、大学は州ごとにある。2年の徴兵制があるが、大学卒は1年間だけである。
 キューバ人はスペイン、メキシコ、アメリカに移住して家族に物やお金を送りたいと思っている。
 電化製品は90%以上は中国製で、闇市などでエアコンなどを買っている。
 宗教は、カトリックが多く、次にプロテスタントで黒人にはアフリカからもたらされた宗教を信仰している人も多い。
 政府の高官になる人は、キューバ革命で権力を握った革命家の子孫が多い。
 パンは毎日配給されているが、肉は1か月に1回、キューバ人は牛肉を食べられない。人を殺したら8年ぐらいの刑で、牛を殺したら15年の刑になる。牛は国家の財産であり、これを殺すということは国家に対する反逆となるからである。
 キューバ人は魚はあまり食べない。ロブスターやエビやタコは高く卵やイカは安い。
 ソ連の崩壊でロシアから何も入ってこなくなった1991年~92年は食べ物が全くなかったので、布を油で揚げて食べた。
 ガソリンは1リットル1ペソ(110円)だから日本と同じ価格であるが、給料と比較すると非常に高い。
 スマホは90%持っているとガイドさんは言っていたが、都会の若者だけであろうと思われる。
 映画館の料金は25セント(30円)と安いが、給料と比較するとそんなものか。
 年金は男性が65歳、女性は60歳から支給される。
 共働きが多く、結婚は25~35歳が多い。
 シエンフェゴスには11時45分ごろに到着した。シンフエゴスの旧市街は、「シンフエゴスの都市歴史地区」として世界遺産に登録されている。
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(世界遺産に登録と表示されている)
 シエンフェゴスにはホセ・マルティ公園がある。ホセ・マルティについてはハバナでホセ・マルティ記念博物館の時に紹介したが、彼は19世紀にスペインからの独立運動に活躍した革命家であり文学者でもあり、キューバ人にとても尊敬されている人物である。公園の中央に彼の像が立っている。
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(ホセ・マルティ公園 中央に彼の像が立っている)
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(ホセ・マルティ公園 奥の建物が市庁舎)
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(公園には制服を着た小学生が多数いた)
 公園の周りには コロニアル調の建物が建っており、高い塔が見える立派な建物は市庁舎である。
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(大聖母マリア教会)
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(大聖母マリア教会)
 市庁舎の横にある立派な建物は中学校である。
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(中学校)
 公園にはシエンフェゴスの位置を示す地図が描かれていた。
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(シエンフェゴスの地図)
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(ホセ・マルティ公園)
私たちは蒸留博物館を出て、サンフランシスコ広場へと徒歩で移動した。この広場には、1739年に完成したバロック様式のサンフランシスコ・デ・アシス教会がある。塔の高さは42メートルもあり、ハバナで最も高く、ドーム型の天井と、身廊は使徒を表す12本の巨大な柱に支えられている。
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(サンフランシスコ・デ・アシス教会)
 この広場は、1982年に「ハバナ旧市街とその要塞群」として世界遺産に登録された。
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(サンフランシスコ広場)
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(スペイン語でプラザとは広場のことである)
 私たちはサンフランシスコ広場からアルマス広場へと歩いた。この名前の広場は中南米の各地にあり、私が2年前に訪れたリマにもあった。「アルマスとはスペイン語で兵器(武器)を意味し、直訳すると「武器の広場」という物騒な意味となる。かつて植民地時代に「武器の広場」は暴動や敵の攻撃に備えて兵士が警備していたため、有事の際は市民の避難所となった広場である。」(南米旅行記③より)この広場には、19世紀にスペインからの独立戦争に活躍し「国父」と呼ばれているカルロス・マヌエル・セスペデスの銅像が立っている。
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(カルロス・マヌエル・セスペデスの銅像)
 アルマス広場には蒸気機関車が展示されていた。なぜここに蒸気機関車が展示されているのかわからなかった。
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(蒸気機関車)
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(蒸気機関車)
 私たちはガイドさんの案内で旧市街をあちこち歩いたが、この街にはいたるところにヘミングウェイゆかりの酒場があった。彼がよく通ったアンボスムンドスという酒場を見学させてもらった。
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(アンボスムンドス)
 次にヘミングウェイがよく通ったのがラ・ボデギータ・デル・メディオと呼ばれるお店で、ここは観光客がいっぱいで入ることができなかった。このお店はヘミングウェイだけでなく、パブロ・ネルーダやナット・キング・コールやマレーネ・ディートリヒなど有名人が多数通っていたらしい。
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(ラ・ボデギータ・デル・メディオ)
 さらにヘミングウェイのゆかりの酒場として見学したのがフロリディータという店で、ここにはヘミングウェイの銅像が置かれていた。
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(フロリディータの店にあるヘミングウェイの銅像)
 ハバナの旧市街には大聖堂(カテドラル)があった。この大聖堂の正式名はサン・クリストバル大聖堂で、1555年に創建されたが、その後1704年に再建されたものである。キューバ・バロック建築の傑作で二つの大きさの異なる塔を持っている。右の塔は、重さ7トンもある鐘が吊り下げられている。右の塔と左の塔の大きさが違う理由をガイドさんに聞いたが、よくわからないが、予算がなかったから左の塔を小さくしたといっていた。
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(サン・クリストバル大聖堂)
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(サン・クリストバル大聖堂の右の塔)
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(サン・クリストバル大聖堂)
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(観光客でにぎわう旧市街)
 私たちは旧市街の観光を終えて、レストランでディナーを食べてホテルに帰ったが、これで1日目の観光が終わった。
 私たちはバスでハバナに戻り、レストランでランチを食べた。
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(レストラン)
 ランチにはウエルカムドリンクとして全員にモヒートがついていた。モヒートとはハバナが発祥の地とされ、ラム酒にミントの葉と砂糖と炭酸と氷などを混ぜ合わせたカクテルである。
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(レストランでモヒートを飲んでいる。)
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(レストランで出された前菜)
 このツアーでは、毎回メインディッシュは3~4種類から選ぶことができるようになっており、私はロブスター選んだ。
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(メインディッシュのロブスター)
 キューバはコーヒーも有名で、このレストランでは古いコーヒーの淹れ方で出されたが、大変苦かった。
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(この道具を使ってコーヒーを淹れてくれた)
 昼食の後、私たちはバスでハバナクラブ蒸留博物館の見学へと向かった。途中、キューバ観光に来た豪華客船が見えた。
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(豪華客船)
 蒸留博物館は、どのようにしてラム酒が作られてきたのかを模型や古い道具を陳列して説明されている博物館である。ラム酒は砂糖を製造するときにできた糖蜜を蒸留してつくられた蒸留酒である。
 博物館の中庭にはサトウキビを絞ってジュースとして販売していた。
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(サトウキビを絞る機械)
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(博物館の中庭)
 サトウキビの原産地はインド・東南アジアであり、1492年のコロンブスのアメリカ到達以後にカリブ海に広がった。当時の帆船の模型が陳列されていた。
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(当時の帆船の模型)
 また、当時ラム酒を作るのに使われていた道具が置かれていた。
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(当時ラム酒を製造に使われていた道具)
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(当時の蒸留所の模型)
 蒸留所には蒸気機関車が使用されていた。日本で蒸気機関車が使用されたのは1872年であるが、それよりも早くキューバでは蒸気機関車が使用されていたとガイドさんが話していた。
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(蒸気機関車が使用されていた)
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(当時の蒸留所の模型)
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(当時の蒸留所の模型)
 蒸留酒を樽に寝かせ、その後瓶詰にして販売するが7年間寝かせたものが美味しいらしい。
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(蒸留酒を瓶詰している)

 現地ガイドのユーノさんによると、キューバ人の半分は公務員で、1か月の給料が15~20ペソらしい。1ペソは1ドルぐらいだから、日本円に換算すると1600円から多くてもせいぜい3000円ぐらいである。
 年金も公務員の給料と同じ15~20ペソである。教員の給料は最低の15ペソで、誰も教員にはなりたがらない。そのために学校の先生の質がどんどん悪くなっているとのことである。医者は40~80ペソで、軍人は80ペソ以上である。公務員でない運転手などは1か月400ペソで、観光バスの運転手などは非常に高く、1000ペソも稼いでいるらしい。
 キューバでは今でも、たまご、チキン、砂糖、塩、石鹸、オイル、豆、パンなどは安く配給されているが、それでは足りなくて、市場でパンなどを買わなければならない。ガイドさんから配給表を見せてもらったが、日本の戦争中の配給制度と同じようであった。
 教育と医療は無料であり、住居も政府から支給され、食糧も安く配給されるので、生きていく最低限度は保障されており、日本のようなホームレスにはならない。しかし、観光以外にはこれといった産業もなく、とにかく物が不足している。以前はキューバといえば砂糖産業であったが、今では砂糖の輸出は世界第9位で、その輸出高は1位のブラジルが2730万トンであるのに対して、キューバの輸出高はわずか50万トンでしかない。(2011~12年の統計)
 石鹸やシャンプーなどが不足しているということで、ガイドさんの希望で、ホテルで使わなかった石鹸やシャンプーを持って来て欲しいと言われたので、私たちはそれらをガイドさんにあげることにした。
 さて、私たちは革命広場からバスで約30分ほどかかってコヒマルに到着した。コヒマルには、文豪ヘミングウェイの邸宅があった所で、ここで小説『老人と海』を執筆した場所として有名である。現在はヘミングウェイ博物館になっており、私たちは博物館の見学へと向かった。
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(ヘミングウェイ博物館)
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(ヘミングウェイが使っていた部屋)
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(ヘミングウェイが使っていた机や本箱)
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(ヘミングウェイが使っていたバス・トイレ)
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(ヘミングウェイが使っていた靴箱と洋服掛け)
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(ヘミングウェイが使っていた寝室)
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(ヘミングウェイ博物館から見える景色)
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(ヘミングウェイ博物館に飾ってあったヘミングウェイの写真)
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(ヘミングウェイが使っていたプール)
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(ヘミングウェイの愛犬のお墓)
 ヘミングウェイは動物が好きで、猫は50匹買っていたといわれている。
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(ヘミングウェイが愛用していたボート)
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(ヘミングウェイ博物館の2階から見える景色)
 博物館を出てバスでラ・テラサというヘミングウェイが愛用したレストランへ向かう途中、キューバ人が使っている配給所をガイドさんが教えてくれた。
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(配給所)
 しばらくしてラ・テラサというレストランに到着した。ここは当初の予定では外からの見学だけとなっていたが、時間の余裕があるので、一人1.5ペソでカクテルとレストランの内部見学ができるということで、全員入ることになった。
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(ラ・テラサ)
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(ラ・テラサの看板)
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(ラ・テラサの裏から見える海の景色)
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(ラ・テラサの内部)
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(ラ・テラサの中から見える海の景色)
 ヘミングウェイはこのレストランでお酒を飲みながら海を眺めていたのか。
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(店内では生演奏を聞かせてくれた)
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(店内の様子)
 店内でカクテルを飲み終わったころ集金に来たので、わたしは友人と一緒で3ペソを支払い、私たちと同じテーブルに座っていた夫婦は5ペソで2ペソのお釣りを待っていた。その後、アシスタントのダルさんが集金に来たので、私は店の人に支払いましたと言って店の外に出た。ところが、後でわかったことであるが、私たちが支払ったと思ったのは間違いで、それは演奏者のチップであり、私たちと同じテーブルの夫婦はさらに3ペソを支払ったとのことである。
 ラ・テラサから歩いてすぐのところにヘミングウェイの虚像があった。
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(ヘミングウェイの虚像)
ヘミングウェイの虚像の近くには、小さい要塞があった。
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(小さい要塞)
 
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 この旅行記は、私が友人と「トラピックス 3つの世界遺産を巡るキューバ6日間」のツアーに参加してまとめたものである。参加者は関西が多かったが、中には九州・四国・名古屋・関東・北海道から来た人がおり、総勢38名という大所帯のツアーであった。
 私たちは、2019年3月6日に伊丹空港を13:00に出発し、羽田空港に14:10に到着したが、ここでツアー参加者全員が合流した。そして、羽田空港を18:50にエア・カナダにてトロントへと飛び立ち、約12時間かけてトロントに到着した。時差はマイナス14時間なので、トロントに到着した時刻は3月6日の16:50頃であった。
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(トロントの空港)
 カナダからキューバのハバナにはエア・カナダルージュという格安航空で約3時間35分かけて23:50分ごろに到着する予定であったが、飛行機は予定より1時間近く遅れた。
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(エア・カナダルージュの機内)
 飛行場から約20分ぐらいでホテルに到着した。カナダとキューバとの時差はなく、私たちが睡眠をとったのは午前の2時ごろであった。しかし、日付変更線をこえて来たためか、私にしては珍しくその夜なかなか寝つくことができなくて、うとうとしたのは夜明けごろであった。
(観光1日目)
 翌朝、8時のモーニングコールで目覚めたが、ホテルの部屋からは綺麗な景色が目に飛び込んできた。
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(ホテルから見えるハバナの景色)
 私たちの現地ガイドはルスレイリ(通称ユーノ)という31歳の女性で、アシスタントは通称ダルという若い女性だった。現地ガイドのルスレイリはキューバについてなんでも質問してくれと言って、キューバについてのいろんなことを教えてくれた。例えば、キューバでは今でも土葬が一般的であるが、カストロは彼の希望によって火葬にしたということだ。
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(右から2番目がガイドのルスレイリ、その隣がアシスタントのダルさん)
 私たちは9時40分にホテルを出発し、バスにてコヒマルへと向かったが、途中、革命広場で下車した。広場には、ゲバラの似顔絵が描いてある内務省のビルとゲバラとともに革命に参加したカミーロの似顔絵が描いてある情報通信省のビルがあった。カミーロは革命後すぐに行方不明となったが、ゲバラはカミーロが好きだったらしく、息子の名前をカミーロとつけた。
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(内務省のビル)
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(情報通信省のビル)
 ゲバラやカミーロの肖像画の反対側には、ホセ・マルティ記念博物館の巨大な塔が目に入った。
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(ホセ・マルティ記念博物館の塔)
 ホセ・マルティは19世紀にスペインからの独立運動に活躍した革命家であり文学者でもあり、キューバ人にとても尊敬されている人物である。
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(ホセ・マルティの像)
 革命広場には色とりどりのクラシックカーが並んでいた。
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(色とりどりのクラシックカー)
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(色とりどりのクラシックカー)
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(色とりどりのクラシックカー)
 クラシックカーの横には可愛いタクシーも並んでいた。
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(可愛いタクシー)
 
 私がここで購入した『ナスカの地上絵』という本によって地上絵についての情報を提供しよう。 
 ナスカの地上絵の研究は、1939年に北アメリカのポール・コソックによって調査が始められた。そして、1941年にナスカの地上絵は「世界一巨大な天文カレンダー」であると発表した。そして、その研究はドイツ人数学者マリア・ライヘへと受け継がれる。
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(マリア・ライヘ)
 彼女はナチスドイツを嫌ってペルーに移住し、ポール・コソックの助手となった。そして、その生涯を地上絵の測量と研究、保存に捧げることとなった。
 さて、一つ一つの地上絵がいつ頃描かれたものであるかを正確に判定することは難しい。しかし、1991年に行った調査によれば、パラカス文化ネクロポリス期、パラカスーナスカ文化期、ナスカ文化期の紀元前193年から紀元648年に描かれたものである。
 地上絵には、20㎝から1mの深さの溝を掘って描かれたものと、表面の石を取り除き、線の両縁にそれらの石を並べて図像を形成しながら描かれたものがある。両タイプともに風によって溝に砂がたまらないよう、消えにくい構造になっている。
 最も古い地上絵は、パラカス文化のものである。淺浮き彫りで造られたこの地上絵のモチーフには、織物や土器同様に、動物型・人間型神話的存在が用いられた。
 地上絵の意味と目的については様々な説がある。
① 地上絵が平原で行われていた豊穣の儀式に関連していたという説。
② 地上絵と地下水路、墓を関連づけて、それらが聖なる道であったという説。そして、その説に付け加えて、描線は、宗教的な目的で人々が集まるところを指し示していたという説。
③ 天文学カレンダー説。マリア・ライヘはこの説を支持し、平原にはナスカ文化の星座が表現されていると加えた。しかしながらこの説は、天文学者ホーキンスによって否定された。平原にある図像の80%以上が天文学現象とは関わりがなかった。
 その他には、住民が地上絵を描くという労働を続けることで人口の爆発的急増を防いでいたという説、平原は黒板の役目を果たし灌漑計画や地下水路をなぞっていたという説もある。さらに、呪術的行為と関連づけて、幻覚症状を引き起こす、「アヤワスカ」(向精神性の飲料)を用いて描いたものであるという説まである。
 現在、研究者の中で最も有力と考えられているのは①である。地上絵は「山々の神々」と平原内の聖なる地点を結ぶものであり、巡礼や水への信仰にも関係していたと言われている。
 私たちはナスカの地上絵を見学した後、空港からナスカ市内に戻り、レストランでランチを食べた。市内のアルマス広場には人物像が置かれていた。
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(フランシスコ・ポロネーズ像)
 現地ガイドのミゲルさんの話しでは、この像の人物はフランシスコ・ポロネーズで1879年にペルーがチリとボリビアと戦ったときの英雄だそうだ。
 ミゲルさんは日本に出稼ぎに行ったことがあり日本語はぺらぺらであった。彼は何でもよく知っており、特にペルーの元大統領藤森さんについては詳しかった。藤森さんは日系ペルー人であると知っているのに、彼のことをペルー人は皆チノーと呼んでいたらしい。チノーとはチャイナつまり中国人のことであり、ペルー人にとっては、日本人も中国人も同じだと思われているようだ。藤森さん自身も自分のことをチノー藤森と言っていたとのことだ。
 私がペルーの観光について訪ねると、年間の観光客数は300万人でそのうち日本人は20万人だそうだ。マチュピチュなどの世界遺産があるのに300万人の観光客とは少なすぎるのではないかと思った。
 昼食後、私たちはバスでリマへと戻ったが、途中に日系のペルー人が経営するお土産屋さんがあった。そこで私はペルーの名産品であるアルパカのセーターとペルー産コットンのTシャツを買った。
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(現地ガイドのミゲル)
 日系のペルー人が経営するお土産屋さんでのツーショット、大きなアルパカの人形があった。アルパカは衣類の原料として飼われており、同じラクダ系のリャマは労働のために飼われている。
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(アルパカのセーター)
 ここのお店で買ったベビーアルパカのセーター。ベビーアルパカは毛が柔らかく、アルパカが最初に刈り取った毛のことをベビーアルパカと呼ぶ。このような柔らかい毛は一度だけであり二度と生えてこないそうだ。
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(コットンのTシャツ)
 ペルーはコットンも有名で、このコットンTシャツにはナスカの地上絵が13も描かれている。
 バスがリマのホテルに着いたのは午後6時頃であった。
 翌朝、午前9時15分頃、ホテルを出発し、15分でリマの空港に到着した。
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(リマの空港)
 私たちは12時20分のロサンゼルス行きの飛行機に乗り、ロサンゼルスには午後6時頃到着した。ロサンゼルスの空港には、以前掲示されていたオバマさんの写真は下ろされていた。しかし、トランプさんの写真は掲示されていなかった。私たちは1月23日(月)の0時5分の羽田行きに乗り、約12時20分かかって羽田に到着したが、日付は1月24日(火)5時25分であった。羽田から大阪空港に乗り継ぎ、大阪に到着したのは午前9時10分頃であった。
 以上で南米(マチュピチュ・イグアス)旅行記は終わりです。長い間ブログを見ていただいてグラーシャス(ありがとう)それではみなさんアディオス(さようなら)