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カテゴリ:授業実践( 111 )

Ⅱ 枢軸の形成と国際関係の緊張
1 イタリアのエチオピア侵略
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資料⑤(第一学習社「最新世界史図表」より)

上の資料を参考にして次の問題に答えよう。
問⑭ エチオピアを侵略した国はどこですか。
また、侵略の背景には何がありましたか。
問⑮ エチオピア皇帝は侵略に対して国際連盟に提訴したが、なぜ効果を上げることができなかったのですか。
問⑯ エチオピアへの侵略はその後の歴史にどのような影響を与えたか調べてみよう。
(解説)
 イタリアのムッソリーニは、世界恐慌で経済がゆきづまると、対外膨張政策をおしすすめようとしたが、バルカン半島や地中海は列強の勢力が強かったのでエチオピアを侵略の対象とした。当時のエチオピアはアフリカで数少ない独立国であり、列強の支配をまぬがれていたためである。1935年、イタリアがエチオピアに侵入すると、エチオピア皇帝は国際連盟に訴え、連盟はイタリアへの経済制裁を決議した。しかし、強制力を持たず、また国連未加盟のアメリカから石油を輸入できたため経済制裁は不徹底に終わり、1936年、イタリアはエチオピアを併合した。国際的に孤立したイタリアはドイツに接近し、1936年、ベルリン=ローマ枢軸と呼ばれる協力関係が成立した。同じ1936年、日独防共協定が成立し、1937年にはイタリアも加わわって三国防共協定が成立し、ファシズム諸国間の結びつきが強化され、イタリアは国際連盟から脱退した。
【課題】
①満州事変の背景には、日本の戦後恐慌・関東大震災・昭和恐慌による農村の疲弊などを打開するために対外侵略へと進んでいったと授業展開しているが、果たしてそれでいいのか。明治維新以降の日本の近代史は、日清・日露・第一次大戦・シベリア出兵など経済的背景に関係なく他国を侵略していった。日本の軍部は、チャンスがあればいつでも対外侵略を狙っており、満州から中国全土への侵略はむしろ軍部の方針であったのではないか。そして戦争を拡大することによって戦争に勝つための政治体制づくりを進め、日本は軍国主義体制を確立していいったのではないか、これについて議論をしてほしい。
② 日本人は戦争に対して被害者意識は強いが、加害者意識は非常に弱いと思われる。そこで南京事件を取り上げ、なぜこのよう蛮行が日本軍によって行われたのかを生徒に考えさせる必要があると思われるが、これについて議論してほしい。
③ なぜ日中戦争のつぎに突然イタリアのエチオピア侵略へと授業を進めていくのか、授業の構成について議論をしてほしい。


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3 日中戦争と民族統一戦線
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資料④A(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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資料④B(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
問⑫ 資料④Aの写真は日本軍が中国の首都南京を占領した写真である。さて、日本軍が中国との全面戦争を始めるきっかけとなった事件は何ですか。なぜ日本軍は中国との全面戦争に突き進んでしまったのかを考えてみよう。
問⑬ 資料④Bは南京占領時に日本軍が行った蛮行の写真であるが、これは何と呼ばれているか。また、何人の人達が犠牲となったのか。また、なぜこのような蛮行が行われたのかを考えてみよう。
(解説)
 1937年7月7日、北京郊外で日中両軍が衝突した盧溝橋事件が起きると、日本軍は華北の支配をねらって戦火を拡大した。これに対抗して中国では、第2次国共合作が発表され抗日民族統一戦線が成立した。日本は、満州事変と同じように中国を簡単に屈服させることができると考えていたが、中国の抵抗は強力であった。日本軍は北京と天津を、8月には上海を占領したが、中国国民の抵抗は激しく、国民政府の首都である南京占領にさいし暴行・略奪と蛮行を繰り返したがこれを南京事件(南京大虐殺)と呼ぶ。その犠牲者の数については諸説あるが、日本の歴史学者の中には、4万人、あるいは20万人をくだらない数をあげているが、中国側は30万人以上としている。また、犠牲者には捕虜や婦女子など無抵抗の非戦闘員も多かった。このような蛮行が行われた背景には、日本軍の補給は現地調達で賄うという日本軍のやり方があるとともに、日本軍の中には中国人の人権を無視する差別意識があったのではないかと思われる。このような蛮行に対し、世界から強い非難をあびたが、日本国民は敗戦までこの事実を知らされなかった。南京を占領して勢いにのる日本は、1938年、中国政府を交渉相手にしないという声明をしたが、実際にはおもな都市と鉄道線を確保する点と線の支配でしかなかった。中国政府は武漢からさらに重慶に首都を移して抗戦を続け、広大な農村地帯には共産党軍が農民に支持を広げて抗日根拠地をきずいていった。さらに、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の各国は、ヴェトナム・ビルマなどからの援蒋ルートをとおして中国政府支援を強化していった。そのため、日本は軍事的にも経済的にも戦争の継続が困難となり、1940年には国民党副総裁だった汪兆銘によるかいらい政権をつくって打開に努めたが、支持は広がらず、日中戦争は泥沼状態におちいり、国際的にも孤立していった。

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(資料② 東京法令「日本史のアーカイブ」)
上の地図を参考にして、次の問題に答えよう。
問③ 「満州国」建国のきっかけとなった事件とは何ですか。
問④ それは誰が何の目的で起こしたのですか。
問⑤ 日本が、列強の非難を満州からそらすために起こした事変とは何ですか。
問⑥ 「満州国」を建国するために擁立された皇帝は誰ですか。また、この国家の実権を握っていたのはどのような人たちですか。
(解説)
  父張作霖のあとを継いだ張学良は中国政府に合流し、日本の利権を回収しようとした。そのため、日本の軍部、なかでも満州に駐留する関東軍や在留日本人らは危機感をつのらせ、1931年、満州北部で中村震太郎陸軍大尉が中国軍に射殺された事件や、吉林省で入植した朝鮮人農民と中国人農民とが水利工事をめぐって衝突した万宝山事件を利用して、満州は日本の生命線であると宣伝し、国民にその重要性を訴えた。そして、1931年9月18日、関東軍の板垣征四郎・石原莞爾らは奉天郊外の柳条湖で満鉄線路を爆破させたが、これを柳条湖事件と呼ぶ。関東軍は、これを中国軍が起こしたとして、いっせいに中国軍に攻撃をしかけ、満鉄沿線の主要都市を次々に占領していったが、これを満州事変と呼ぶ。中国では日本への猛反発が起こったが、中国政府は不抵抗の方針をとり、国際連盟に提訴した。さらにアメリカが日本の行動をきびしく批判するなか、国際連盟はリットン調査団を日本・中国へ派遣した。そのため、軍部は、1932年に国際社会の目を満州からそらす目的で、上海で海軍陸戦隊を中国軍と衝突させた第1次上海事変を引き起こした。そのうえで、1932年、清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を皇帝とする「満州国」を建国し、長春を新京と改めて首都とした。しかし、国家の実権は日本の軍人や官僚が握ったかいらい国家であった。
2 日本の華北侵略と中国の内戦
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資料③(文英社「理解しやすい世界史B」より)
上の地図を参考にして、次の問題に答えよう。
問⑦ 地図上に青く塗られている中国共産党の長征の出発点と終着点の都市名をあげなさい。また、その距離はいったいどのくらいあったと思われますか。
問⑧ 中国共産党が長征を行った理由は何ですか。
問⑨ 長征の過程で実権を握った人物は誰ですか。
問⑩ 中国共産党は国民党政府に抗日民族統一戦線の結成を呼びかけたが、この宣言を何と呼びますか。
問⑪ 1936年、これに同調した張学良らが蒋介石を監禁し、抗日への政策転換を求めた事件を何と呼びますか。
(解説)
  1933年、日本は国際連盟を脱退し、さらに華北にも侵略をすすめるようになった。同年、日本軍は熱河省と河北省を攻略し、河北省東部を非武装地帯とする塘沽(タンクー)停戦協定を中国と結んだ。1935年には、華北5省を中国から分離する工作を開始し、冀東(きとう)防共自治政府などのかいらい政府をつくった。しかし、蒋介石は国共内戦に力を入れ、1934年には中華ソヴィエト共和国臨時政府の根拠地の瑞金を占領した。一方、中国共産党軍は瑞金を放棄し、国民党軍と交戦しながら、にかけて1万2500kmを徒歩で移動し、1935年に陝西省北部に到達したが、これを長征と呼ぶ。長征の過程で毛沢東が実権を握り、延安を新たな根拠地として活動を再開した。この間、中国共産党はコミンテルン代表の人民戦線戦術の影響を受けて、内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成を呼びかけたが、これを八・一宣言と呼ぶ。これは大きな反響を呼び、1936年、これに同調した張学良らは西安で蒋介石を監禁し、抗日への政策転換を求めたが、これを西安事件と呼ぶ。この事件の解決に共産党の周恩来が協力し、さらに共産党が地主の土地の没収政策を停止するなどの政策転換を発表したので、この事件をきっかけに国共関係は好転した。
【授業のねらい】
 Ⅰ 日本軍国主義の台頭と日中戦争
① なぜ満州事変が起こされたのか、また満州国とはどのような国家であったのかを理解させる。
② 長征とは何か、また、八一宣言の影響を受けて抗日民族統一戦線が結成された経過を理解させる。
③ なぜ日中戦争が起こされたのか、また、戦争の過程で、なぜ南京大虐殺が起こされたのかを考えさせる。
④ なぜイタリアはエチオピアを侵略したのか、その結果世界はどのように変わっていったかを理解させる。
【授業展開】
 Ⅰ 日本軍国主義の台頭と日中戦争
1 日本の植民地支配と満州侵略
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資料①A((小学館「日本の歴史30」)
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資料①B(小学館「日本の歴史30」)
問① 上の資料①のAとBの写真はいつの時代でしょうか。また、それぞれ何を表しているでしょうか。
問② なぜこのような悲惨な状態が生まれたのか、その歴史的背景について調べてみよう。
(解説)
第一次世界大戦で好況をつづけた日本も、戦後の不況と関東大震災で大きな打撃を受けた。1929年に世界恐慌がおきると、その打撃は農村において最も深刻であった。家計を助けるために都市に出稼ぎに出ていた農村出身の労働者は職を失って帰村したうえ、米価をはじめ農産物価格の暴落によって農家経済は苦しくなった。とくに生糸の輸出が激減したため、繭の価格が暴落し、農村の副業である養蚕業は壊滅的な打撃を受けた。1932年の農林省の調査によると、新潟県では、年頃の娘がいなくなると、小学生の児童までも売る傾向が増えてきた。子供の値段は尋常3年くらいで100円、卒業したもので400円といった状態であった。また、文部省の調査によると、農漁村の欠食児童は、北海道1万899、青森の6107、秋田の996、岩手の3539という人数に達し、全国の欠食児童は20万人を突破するという状態であった。(小学館「日本の歴史30」)資料①の大根をかじる欠食児童は昭和9(1934)年の岩手県遠野の上郷村で撮影されたものである。
6)南京条約
(資料f)
1.香港島の割譲 
2.賠償金2700万ドルを支払う
3.広州・福州・厦門・寧波・上海の五港開港
4.公行の廃止による貿易の完全自由化
追加条約により
①領事裁判権(治外法権)②片務的最恵国待遇 ③関税自主権喪失
(一橋出版 教科書 「世界の歴史B」)
問① 資料fは何と呼ばれる条約ですか。
問② この条約ではアヘンに対する条項がないのはなぜでしょうか、調べてみよう。
(解説)
①1842年8月29日、清朝全権大使らを南京沖の長江上の旗艦コーンウォリス号に呼びつけたイギリス軍は、南京条約を調印させた。②「南京条約には戦争の原因となったアヘンに関する条項がない、その貿易量は1839年の1年だけは激減したが、戦争中にまた急増し、戦後はさらに伸びている。条約締結の直前に双方の代表が『公然たる密輸』で合意していたからである。すなわち条約にはアヘン条項を入れないが、清朝官憲はアヘン密輸を取り締まらないという内容である。」(中央公論社「世界の歴史25」)
【課題】
① アヘン戦争を従来のようなとらえ方でよいのか。
  前回の原さんが紹介した浜下武志氏の「これまでアヘン戦争はもっぱらイギリス、アメリカ側の貿易利益を貫徹するための、閉鎖的なアジア各国を市場として開放するための戦争として理解されてきたからである。しかし、この朝貢政策の転換にみられるように、むしろ清朝が朝貢関係をそれ以前よりも緩やかにし、独自の重商主義政策をとろうとしていたということが考えられる。すなわち、朝貢政策を転換させることによって、清朝中央が急増する広東貿易に力をそそぎ、財をそこから吸収しようとしたということである。同時にこのことは、広東の地域主義として、貿易に特化し、かつ広東貿易を掌握しようとする地域の利害も大きく働いており、それが中央の財政政策に大きく影響を与えていたと思われる。いわゆる、アヘンの厳禁論と弛禁論との対立である。同時に、広東十三行の商人達が外国商人と密接に交易関係を結んでいたということも思いおこされるのである。これに対して清朝中央は重商政策に移行しようとし、そのために、独自の利益を追求しようとする広東地方の動きを、林則徐を派遣することによって中断させようとした、とみることもできよう。その意味ではアヘン焼却事件を、広東貿易の利益をめぐる中央と地方の衝突、北と南の対立としてみることも可能であろう。」(岩波講座 世界史講座20)という問題提起を議論してほしい。
② アヘン戦争における「三元里の民衆の闘い」をどのようにとらえればよいのか。民衆は闘ったけれどもむだであったのか、それ以後の中国史の中でどのような役割を果たしたのかという問題を議論してほしい。
【質疑・討論】
 先ず資料a(イギリス使節マカートニーの乾隆帝との会見)の風刺画は誰によって描かれたのかという質問が出された。ネットで調べてみるとイギリス人のギルレイによって英国内で描かれた風刺画であることがわかった。この絵によって当時のイギリス人が中国人に対して持っていたイメージがよくわかり、このような絵画や写真など視覚に訴えるものが授業には有効であるかを再確認した。
 次に原さんから、清朝末期に存在した「冊封・朝貢システム」が、アヘン戦争やペリー来航によってどのような変化を受けていくのかという観点が重要であると指摘された。かつての「冊封・朝貢システム」から主権国家の誕生という観点で東アジアの変化をみていく必要を強調された。しかし、私や志賀さんは清朝末期には冊封・朝貢は形骸化されており、そのようなシステムは存在しなかったのではないかという反論が出され、これをめぐって議論が進んだ。
4)アヘン戦争
(資料e)
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(東洋文庫蔵)
問① 上の絵は何という戦争をあらわしたものですか。
問② この絵で破壊されているのは何という船で、どこの国のものですか。
問③ この絵の右側に小さく見える船は何という船で、どこの国のものですか。
問④ この戦争は2年間もかかって戦われたのはなぜですか、また、この戦争はどのような特色を持っていたのかを調べてみよう。
(解説)
 ①アヘン戦争 ②破壊されているのはジャンク船と呼ばれる中国の船である。③イギリスのメネシス号と呼ばれる蒸気船である。④「戦争は予想を超えて2年以上にわたった。1840年秋には戦場を広東省に移し、1841年夏まで釘付けになった。ここではイギリス軍が上陸して地上戦になったが、清朝正規軍は戦闘を回避することが多かった。イギリスは制海権を保持しており、41年1月、香港島を占領して永久居留地とし、香港政府樹立を宣言した。本国およびインドから援軍が到着し、1841年秋に戦場を長江下流域に移した。イギリス派遣軍はのべ約2万人にのぼった。」(中央公論社「世界の歴史25」)しかし、イギリス陸軍の80%はインド人兵士であり、アヘン戦争は一面でインド人と中国人の戦いという特色を持っていた。
5)三元里の民衆の闘い
問① イギリスの広州侵略に対してこの地域で『官は洋鬼をおそれ、洋鬼は民をおそれる』という民謡がひろがったが、民衆はどのような対応をしたのか、次の資料を読んで考えてみよう。
 (資料f)
「イギリス兵の暴行に怒った民衆は、『洋鬼をたおすために集まれ』という合図のもとに、手に手に鋤・鍬・棒をもち、『平英団』(イギリスを平らげる)という旗をたてて立ち上がった。彼らは、撤退するイギリス軍の一隊を三元里で包囲した。1000人余りのイギリス軍を2万人以上の民衆が何重にもとりかこんだ。おりからの豪雨のためイギリス軍は多くの死傷者をだした。急を聞いて広州からかけつけた清朝の役人は、包囲した民衆に向かって、すぐに解散しなければイギリスへの賠償金の負担を三元里の住民に負わせると言っておどしつけた。地主などの村の有力者は必死になって解散を呼びかけ、ついに平英団の旗はおろされた。しかし、農民の怒りは消えず、「官は洋鬼をおそれ、洋鬼は民をおそれる」という民謡がひろがるなど、イギリス人への反感と清朝に対する不信感はいっそう強くなった。」
(一橋出版 教科書 「世界の歴史B」より、この教科書のアヘン戦争の部分は私が執筆しました。)
(解説)
 三元里の民衆の闘いの背景には次のような歴史的経過があった。林則徐は、マカオで発行されていた外国新聞、書籍の翻訳、研究などを行って、西欧事情の把握に努め、これをつうじて西欧文明の軍事技術面の優越性を認識した。彼はまた、のちの洋務運動にさきがけて、ポルトガル、アメリカから洋式大砲を購入し、自力でこれを製造することをも意図した。また正規軍だけではなく、沿岸の漁民、水夫を徴募、訓練して海上のゲリラ戦を準備し、広州周辺で、郷紳を中心に団練を組織させて、民族的な抵抗を展開する構えを見せていた。だが、彼のような官僚は例外的な存在であった。広州一帯を除いて、広大な沿海の防備はなきに等しく、民衆を武装して、民族的抵抗を進める発想はさらになかった。40年6月、中国沿海に到着したイギリス軍は、広州を素通りして北上し、8月には天津に近い白川河口に出現した。この遠征艦隊の威容に驚愕した清朝は、広州で交渉することを約し、林則徐を罷免して、妥協派の琦善に交渉を担当させたが、彼はイギリス軍の圧力になす術を知らず、没収アヘンの賠償、香港島の割譲を含む仮条約に調印した。道光帝はこれに激怒して琦善を罷免したため、イギリス軍は攻撃を再開した。41年5月、彼らは広州の近郊に上陸し、住民に対する略奪や暴行をくりかえした。これに対して広州の清軍はなすところなく敗退し、まもなく賠償金の支払い、清軍の広州城からの撤退などを認めた休戦協定が結ばれた。
2)イギリスの中国貿易
(資料b)片貿易とアジア三角貿易
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(東京法令「世界史のパサージュ」より)
問① 上の図の18世紀では、なぜイギリスから銀が清朝に流出したのですか。
問② 19世紀の図では、なぜ東インド会社が書かれていないのですか。また、なぜイギリスはインドでアヘンを栽培させて清朝に輸出させたのですか。
問③ アヘン流入の結果清朝から銀がイギリスに流出したことは中国社会にどのような影響を与えたか考えてみよう。
(解説)
①イギリスではこの頃、紅茶が流行して中国茶が輸入されたが、イギリスの製品が中国で売れなかったため片貿易となり、イギリスから一方的に銀が流出した。②産業革命によりイギリス国内で銀の需要が高まると、新たな決済手段となったのがインド産アヘンであり、アヘンは中国では禁制品であったため東インド会社は表に出さず、先ず民間商人にアヘンを売り払い、彼らが中国に密輸出した。そのため1780年代から大量にアヘンが中国に流入することになった。③「野生のケシを原料とするアヘンの効用は、紀元前から知られており、利用されてきた。その主要成分はモルヒネで、強力な鎮痛作用をもつとともに習慣性(依存性)の強い麻薬にもなる。同じモルヒネという物質が医薬と麻薬の両面をもつ・・・ケシの花が散った直後(6月頃)、子房に傷をつけて出てくる汁が、太陽光で茶褐色になって固まる。これがアヘンである。それをピンセットで集め、子どもの頭ほどの球状にし、陰干しして、輸出用に梱包する。・・・中英間の戦争の原因になるアヘンは、19世紀アジア三角貿易を構成する中国・インド・イギリスを結ぶ三大商品(茶・綿布・アヘン)のひとつとして、18世紀末から登場する。そして大量に流通し、ほかの商品とは決定的に違う特殊な役割をもつようになる。」(中央公論社「世界の歴史25」より)中国から銀が流出した結果、銀貨が急騰した。清朝では「銀・銅両位制のため、密輸にともなう銀の流出が銀-銅のレートをくるわせ、急激な銀高銅安減少を招来した。それまで銀1両=銅銭600~800文ほどの安定レートで推移してきたのが、アヘン流入にともない、1830年代後半からは1500文と急騰した。銀で決められていた税額は2.5倍の計算になる。延納や納税拒否がおき、それが清朝財政を圧迫した。」(前掲書)また、アヘンの流入は中国に大きな社会風紀上の問題を引き起こした。

3)アヘン戦争の直接的原因
(資料c)
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(中央公論社「世界の歴史25」より) 
 (資料d)
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(東京法令「ビジュアル世界史」より)
問① 資料cは誰ですか。彼はどのような目的で広州に派遣されたのですか。
問②彼は目的を達成するためにどのような行動をとったのですか。
問③その結果、イギリスはどのような行動をとりましたか。
問④資料dは誰ですか。彼はイギリスの議会でどのような発言をしましたか。
(解説)
①cは林則徐であり、彼は27歳で科挙を突破したエリートで、腐敗が横行する官界にあって例外的な清廉官僚であった。役人への賄賂によって野放し状態となっていたアヘン密輸問題を解決するため、道光帝に抜擢され欽差大臣(特命全権大使)として広州に派遣された。②彼は「アヘン貿易商の手持ちアヘンの没収を通告した。林の通告を受けたイギリス貿易監督官エリオットは、イギリス人を主とするアヘン貿易商に命じて、アヘン2万291箱を提出させた。・・・清朝側では、虎門という村の浜辺付近に大きな穴を掘り、生石灰をまぜて没収したアヘンを処分した。」(前掲書)③「エリオットは、この事件の報告を本国外務省へ送った。・・・ロンドンでは、エリオットからの書簡を受け取り、すぐ10月に閣議を開いた。閣議は膨張論者のパーマストン外相の主導のもとに進行し、ただちに出兵を決議した。」(前掲書)④dはグラッドストンであり、彼はイギリス議会で「これほど永遠の不名誉を残す事になる戦争は聞いたことがない」と演説し、出兵決議に反対したが、わずか9票差で下院を通過した。
                 
 私は1月31日(火)に大阪歴教協世界史部会の例会で、「アヘン戦争をどう教えるか」を報告しました。
【授業のねらい】
① 清朝のヨーロッパ貿易が広州一港に限り、取引は公行とよばれる特許商人の組合に貿易の独占権を与えるなどの特色を持っていたことを理解させる。
② イギリスの対中国貿易が絹・茶・陶磁器などを輸入し、輸出が少ないためにその代価として多額の銀が中国に流入したこと、さらに18世紀に茶の需要が急速に伸びたため、イギリスの対中国貿易は著しい輸入超過となったことを理解させる。
③ イギリスは銀の流出に対処するため、インド産のアヘンを中国に輸出するようになり、イギリス本国の綿製品などをインドへ、インドのアヘンを中国にへ、中国の茶などを本国へという三角貿易の体制が成立したことを理解させる。
④ 1830年代に中国へのアヘンの密輸入が急増したため、中国の輸入超過となって大量の銀が流出し、銀の高騰により実質的な増税となり、農民が困窮したこと。また、中国各地でアヘンの中毒者が激増したことを理解させる。
⑤ アヘン戦争は、清朝が1839年に林則徐を派遣してアヘンの密貿易を取り締まり、イギリス商人のアヘンを没収して廃棄処分にしたことにより、イギリスは武力をもって貿易問題を解決しようとしたことによって起こったことを理解させる。
⑥ アヘン戦争が2年も続いた背景には、広州近郊の三元里の民衆がイギリス軍と闘い、「官は洋鬼をおそれ、洋鬼は民をおそれる」という民謡が広まったように、民衆の反英闘争があったことを理解させる。
⑦ 戦争の結果南京条約が結ばれ、香港の割譲、5港の開港、公行の廃止、賠償金の支払い等を認めたこと。さらに追加条約により、領事裁判権、片務的最恵国待遇、関税自主権の喪失などの不平等条約が締結されたことを理解させる。

【授業展開】
 1 アヘン戦争
1)清朝の貿易の特色
資料a
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(乾隆帝とマカートニー「東洋文庫蔵」)
問① 左の絵で大きなイスに座っているのはどこの国の誰ですか。
問② 膝をついて紙を差し出しているのはどこの国の誰ですか。
問③ 彼は何を求めてやってきたのですか。
問④ 彼は三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)を拒否したために要求は実現できなかったが、なぜ清朝は三跪九叩頭を要請したのですか、それは何を意味しているのですか。当時の清朝の体制や貿易あり方について調べてみよう。

(解説)①は中国の清朝皇帝乾隆帝 ②はイギリスのマカートニー ③彼は通商条約締結を求めてやってきた。なぜなら当時、清朝の貿易は広州一行に限り、取引は公行とよばれる特許商人の組合に貿易の独占権を認めていたからである。④清朝皇帝は神と等しく、皇帝に謁見するためには三跪九叩頭をしなければならなかった。マカートニーはこのような奴隷的な態度を拒否して目的を達することができなかったが、当時の清朝の貿易形態は朝貢貿易であり、皇帝に貢物をもってきた見返りとして物品を給付するというやり方であり、イギリスの要求する自由貿易はとうてい認められるものではなかった。清朝のこのような外交姿勢の背景には古くからの中華思想に基づいている。中国が世界の中心であり、国土が広く物資も豊富であるが、他国は国土も狭く物資も少なく文明も遅れており、諸外国が中国と貿易をしたがるのもそのためであると認識していた。
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(資料⑤)スペイン統治下の社会構造(帝国書院「タペストリー」より)
問① ラテンアメリカ諸国の独立運動を指導したのはどのような人たちか。
問② なぜ彼らが独立運動の指導者となったのか。
問③ 彼らが指導したことによって、独立以後のラテンアメリカ諸国はどのような問題を残したか。
問④ ラテンアメリカ諸国の独立運動に対して、イギリスやアメリカ合衆国はどのように対応したのか。
問⑤ ラテンアメリカ諸国の独立は、ウィーン体制にどのような影響を与えたか。
(解説)
問①は、クリオーリョである。問②は、彼らが置かれていた社会的地位に由来する。植民地生まれの白人であるクリオーリョは、植民地体制のなかで、抑圧者であると同時に被抑圧者でもあるという二重性を帯びていた。彼らの多くは大土地所有者ないし大商人であって、植民地住民の圧倒的多数を占めるインディオ農民・黒人奴隷を直接収奪する植民地内の富裕な支配階級を構成していた。しかし、他方、植民地体制のなかで本国とクリオーリョとの間には矛盾が存在した。第一に、クリオーリョは植民地行政機関の上級官職から排除され、ペニンスラールから差別されており、第二に、多種多様な植民地課税に悩まされており、第三に、貿易・海運の本国独占、植民地産業の統制など本国本意の経済政策によって自由な経済活動を抑えられていた。このような不満のなかに本国に対するクリオーリョの抵抗の根拠があった。クリオーリョは、本国政府によるこれらの政策に対して、カビルド(市参事会)と呼ばれる自治組織を拠点として抵抗した。彼らが支配するカビルドは国王=副王の命令が彼らの利益に反すると考えた場合にはそれを無視した。しかし、国王の官吏がそれを強要するときには、カビルドはその官吏を罷免して政治権力を自らの手中に収めようとしたのであった。こうしてクリオーリョの反乱が始まった。
問③は、社会変革の課題を達成できなかったことにある。独立運動の指導勢力はクリオーリョであったが、彼らは大土地所有者・鉱山所有者・大商人などからなり、植民地の地主=ブルジョア階級であった。彼らの多くは、植民地主義者に代わって政治権力を握り、本国の貿易独占や産業規制を除去して国際市場に直接進出することを目的として独立運動に乗り出したのであった。彼らはあくまで本国の植民地支配からの離脱、つまり政治的独立を願ったのであって、社会革命を企図したのではなかった。このような立場から、下層民衆の力を独立運動に利用したが、下層民衆が社会革命を要求したときには弾圧によってそれを阻止した。独立戦争は大土地所有制に基づく私有奴隷制と債務奴隷制という植民地の社会構造の基本を変革することができず、それは独立後の諸共和国にほとんどそのまま持ち越された。こうして社会変革を欠いた独立革命は、逆に独立の達成が本来もっている進歩的意義を引き下げ、新たな従属への道の第一歩となる。独立によって政治権力を握ったクリオーリョ層は、大土地所有制に基づく収奪体系の一層の強化により国内の経済発展を妨げるとともに、自由貿易の展開によりますます国際市場への依存を深めていくが、その結果、政治的独立を達成したラテンアメリカ諸国は、今度はイギリスを中心とする世界資本主義のための原料資源の供給地、商品販売市場として経済的に従属し、事実上の植民地に転化していくのである。(「岩波講座世界歴史20 ラテンアメリカ諸国の独立と変容」参照)
問④について、イギリスは資本主義が発達し、たえず新市場の開発をねらっていたので、ラテンアメリカ諸国の独立を歓迎し、1822年には五国同盟を離脱した。アメリカ合衆国は、1823年に大統領のモンローがいわゆるモンロー宣言を発して、ヨーロッパとアメリカ大陸との相互不干渉を強く主張した。問⑤について、ラテンアメリカ諸国の独立によって、メッテルニヒの望む現状維持政策がくずれ、ウィーン体制は動揺をはじめた。

3 ギリシアの独立
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(資料⑥)(東京法令「世界史のミュージアム」より)
問① なぜドラクロワはこの絵を描いたのか。
問② なぜイギリスの詩人バイロンはギリシア独立戦争に参加したのか。
問③ ギリシア独立戦争にロシア・イギリス・フランスはどのような対応をしたのか。
問④ ギリシアの独立は、どのような歴史的意義を持っているか。
(解説)
問①について、この絵は1822年に当時オスマン帝国統治のギリシアのキオス島で独立派らを鎮圧するため、トルコ軍兵士が一般住民を含めて虐殺した事件の一場面をドラクロワが描いたものである。ギリシアは、15世紀末いらいオスマン帝国の支配下にあったが貿易活動で経済力を高める一方、ヨーロッパの自由主義・国民主義運動の影響を受けて、独立の気運が高まり、1821年より独立戦争を起こした。これに対してオスマン帝国による弾圧は「キオス島の虐殺」に見られるような過酷なものであった。この頃、ヨーロッパの知識人のなかに、ヨーロッパ文化の源泉とみなされたギリシアに対するあこがれが強く、ロマン主義の風潮が広がった。ロマン派の知識人は、異教徒・異民族に支配されたギリシアの現状に憤りをおぼえ、ギリシアの独立戦争を支持した。ドラクロワもこの絵を描くことにより、ヨーロッパ市民の目をギリシア独立戦争に注ぐこととなったのである。
問②について、この頃、ギリシアに対するあこがれとともに、異教徒支配からのキリスト教徒の解放という宗教的性格が加わって、ギリシアの独立戦争は、ヨーロッパで熱狂的な支持と同情を集めたが、ドラクロワと同じくイギリスのロマン派の詩人バイロンも自らギリシア独立戦争に投じ、ミソロンギで病死した。
問③について、ロシアは南下政策により、オスマン帝国に対して強硬な態度をとると、イギリス・フランスはこのロシアの野心を警戒し、ギリシアを援助した。その結果、1827年、ロシア・イギリス・フランス3国艦隊は、ナヴァリの海戦でオスマン帝国・エジプト連合軍を撃破した。1829年、ロシア・オスマン帝国間でアドリアノープル条約が成立し、翌年のロンドン会議でギリシアの独立が正式に承認された。問④について、ギリシアの独立により、ウィーン会議後はじめて、ヨーロッパ大陸における領土変更がおこなわれ、ウィーン復古体制は大きく動揺することとなった。

【課題】
① ウィーン体制を保守・反動的な体制として捉えてきたが、一方で第一次大戦に至るまでヨーロッパ全体にわたる規模の大戦争がなく、クリミア戦争にしても普仏戦争にしても比較的短期であり、全面戦争とはいえないところから、ウィーン体制によって100年の平和が実現できたことは確かであり、これを評価する見解もあるが、これをどう捉えるべきか。
② 教科書では、ラテンアメリカ諸国の独立をウィーン体制の動揺というところに入れているが、それでよいのか。入れるとすればどこがいいのか議論してほしい。
(参考文献)
「岩波講座 世界歴史18 ウィーン体制 斉藤孝」
「岩波講座 世界歴史18 ウィーン体制の変遷 斉藤孝」
「岩波講座 世界歴史20 ラテンアメリカ諸国の独立と変容 高橋章」
「文英堂 理解しやすい世界史B」
 新年あけましておめでとうございます。今年もブログ「山武の世界史」をよろしくお願いします。
Ⅱ ウィーン体制の動揺
1 ウィーン体制への反抗
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(資料③)(第一学習社「最新世界史図表」より)
問① 地図から、ドイツではどのような運動が起こっているか、それについて調べよう。
問② イタリアではどのような革命が起こっているか、それについて調べよう。
問③ ロシアではどのような乱が起こっているか、それについて調べよう。
(解説)
 問①は、ブルシェンシャフト運動である。ブルシェンシャフトとは1815年にドイツの統一と自由主義的な国家改造を目的として組織された学生組合のことである。1817年のルターの宗教改革300年記念祭を契機に気勢を上げたが、メッテルニヒが主催するドイツ連邦会議でのカールスバート決議により解散を命じられ、弾圧された。問②はカルボナリ革命である。カルボナリとは炭焼き人のことで、名前の由来は炭焼人のギルドを模した秘密結社がその源流とされる。この組織は1806年にナポリ王国において結成された。1820年ナポリで、ブルボン復古王政の専制打倒をめざし、さらに1821年トリノでも自由主義的革命政府の樹立をめざして放棄したが、オーストリアの武力干渉で失敗した。問③はデカブリストの乱である。ロシア語で12月をデカブリといい、デカブリストとは「十二月党員」という意味である。1825年12月、アレクサンドル1世の死を機に自由主義的な貴族や士官が農奴制・専制政治に反対して反乱を起こしたが、ニコライ1世により鎮圧された。
 これらの運動は弾圧されたが、自由主義的な改革を求める各国国民の運動をおさえることはできなかった。
2 ラテンアメリカ諸国の独立
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(資料④)ラテンアメリカ諸国の独立(東京書籍「新撰世界史B」より)
問① 地図を見て、ラテンアメリカ諸国のなかで、最も早く独立を達成した国はどこか。なぜこの国が最も早く独立を達成できたのかを調べよう。
問② 独立を達成したのは何年代が多いか、その背景には何があるかを調べよう。
(解説)
 問①は、ハイチである。ここでは、フランス革命の時にトゥサン・ルヴェルチュールの指導する黒人奴隷が反乱を起こし、ナポレオン軍を撃退して、1804年に独立共和国となった。問②は、1810年代から1820年代である。その背景にはスペイン・ポルトガル本国がナポレオンに占領されたのを機に、独立運動が進展したことがあげられる。特に1810年に始まる解放戦争は、北はメキシコから南は地理に及ぶ広大な内陸を舞台として展開された。解放戦争は三つの地域を中心に展開された。第一は、シモン・ボリバルの指導のもとに、コロンビア・エクアドル・ベネズエラを解放し、さらにボリビアに及んだ解放運動であり、第二は、サン・マルティンの指導のもとにアルゼンチン・チリ・ペルーを解放した運動であり、第三は、メキシコでイダルゴの革命運動に始まり、メキシコ・中米の解放を達成した運動である。さらに、本国スペインで1820年~23年にかけて、スペイン立憲革命が起こり、自由主義改革が一時的に成功したことを受けて、1820年代に独立運動が最も高揚した。