カテゴリ:その他( 49 )

 水賀池公園の次の目的地は「土塔町公園・史跡土塔」であり、出発地点から10,2キロメートルある。
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(正面から見た土塔)
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(側面から見た土塔)
 資料によると、土塔は「真言宗。神亀4年(727年)行基60歳の時創建。本尊は十一面観音立像。大野寺の仏塔として建てられたのが土塔。一辺53m、高さ約9mの正四角錐台で十三重の棟。北方に行基が作ったと考えられる『菰池』(こもいけ)がある。」と書かれている。
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(瓦葺と文字瓦)
 「瓦葺と文字瓦」によると、この土塔には約60、000枚の瓦が全面に葺かれていた。葺かれていた瓦の製作年代から室町時代までは瓦の補修が行われていた。土塔からは、文字を記した瓦が約1,300点出土している。行基とともに土塔を建立した「知識」(ちしき)と呼ばれる人たちの名を記したと考えられ、男女を問わず僧尼や氏族の名前もみられる、と書かれている。
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(裏から見た土塔)
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(土塔の復元模型)
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(裏から見た土塔の復元模型)
 「土塔の復元」には、「発掘調査では十三層の形状が明らかにならなかったため、ひとつの可能性をこの模型で示しています。十二層には直径約6mの円形に粘土が並んでいたことから、十三層は饅頭型の土壇の上に八角形の木造建物を復元しました。また、出土した遺物から木造建物には、陶製の相輪があったと考えられます。建物の形状は、法隆寺夢殿(奈良県斑鳩町)や栄山寺八角堂(奈良県五條市)、室生寺五重塔(奈良県宇陀市)を参考にしています。」と書かれている。
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 鈴の宮蜂田神社の次の目的地は野々宮神社であり、出発地点から8,6㎞ある。
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(花のこみち)
 野々宮神社に行く途中に、「花のこみち」があった。資料には、「四季のゾーンに分かれ、手入れの行き届いたガーデン」と書いてあり、道の両側にきれいな花が咲いていた。
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(野々宮神社)
 資料によると野々宮神社は、「祭神は素戔嗚命・火参霊命(ほむすびのみこと)・菅原道真公で紀元は不明。古くから火の神、農業の神として崇拝。明治初期まで併存していた香林寺(行基建立四十九院の1院)は廃仏毀釈により廃寺となった。」と書いてある。
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(野々宮神社の石碑)
 資料にある素戔嗚命(すさのおのみこと)とは、高天原で大暴れし、それを怒った天照大神が天岩戸にこもった。そのため根の国に追放され、出雲に下り、ここで八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した。大国主命はその子孫とされている。また、火参霊命(ほむすびのみこと)とは、イザナギとイザナミとの間に生まれた神である。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その後、怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で殺された。
 この神社と行基とは全く関係がなかったが、もと字中村にあった野々宮神社が永正年中(1504~1520年)に火災にあい、神社が安村香林寺の境内に移されたため関係が生まれた。しかし、明治の廃仏毀釈で香林寺は廃寺となる。
 次の目的地は水賀池公園で、出発地点から9,1㎞ある。
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(水賀池記念碑)
 資料によると、「行基の灌漑用水池の一つとして、和泉国深井郷薦池(こもえいけ)が挙げられるが、これが水賀池であろうと考えられている。」と書かれてある。
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(水賀池祈念碑建立の由来が書かれた石碑)
 この石碑は昭和55年に書かれた新しいもので、水賀池の歴史が刻まれている。この石碑によると、この
深井地区は和泉地方において、弥生時代に発展の基盤を持っていた。6~7世紀の律令国家の行政区画上、深井郷と称し、中世においては深井荘という大きな荘園であった。
 水賀池の築造時期は明らかではないが、堺市史によると行基の郷薦池であろうと考えられている。このことから7世紀後半から8世紀頃にかけ、その築造体験に基づいて、現在の規模の用水池が完成されたと考えられる。
 水賀池の外周が遊歩道で公園になっており、私たちはこの公園でお弁当を食べた。
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 家原寺の次の目的地は華林寺(けいりんじ)で、出発地点から6,5㎞ある。
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(華林寺)
 資料によると、華林寺は「真言宗。行基13歳のとき(680年)母方の蜂田連が氏寺として創建した。本寺に伝えられる行基13歳の有髪絵画は全国的にも例がなく、毎年旧暦2月2日の命日に掲示してお勤めが行われる。」とある。
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(華林寺の本堂)
 資料にある母方の蜂田連の連(むらじ)というのは、伴造(とものみやつこ)系の中央の最有力豪族に多い。また、おそらく蜂田という名前から現在の八田という地名がつけられたのであろう。
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(華林寺本堂の御内仏)
 私たちは資料に書いてあった行基の13歳の有髪絵画を見ようと本堂の中を見せてもらったが、残念ながら見つけることができなかった。
 華林寺の次の目的地は鈴の宮蜂田神社で、出発地点から6,9㎞ある。
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(鈴の宮蜂田神社)
 資料によると、この神社は「行基の母方の蜂田連の祖先、天児屋根命を祀る。蜂田連が土焼きの鈴12個を作り、毎年春の初めに神前に供え、鈴音の良し悪しでその年の吉凶を占ったという故事より「鈴の宮」と呼ばれる。」と書かれている。
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(鈴の宮蜂田神社の鈴塚)
 資料にある天児屋根命(あめのこやねのみこと)とは、高天原(たかまがはら)で祭祀をつかさどる興台産霊神(こことむすびのかみ)(天照大神の子)の子で、天照大神の侍臣(じしん) として仕えていた。天照大神(あまてらすおおみかみ)も、うっとりと聞き惚(ほ)れて、ついに天の岩戸を開けてしまったという美声の持ち主であったといわれている。
 写真には干支の形をした土焼きの鈴が12個並べられているが、これはわざわざ今日のために置かれたということである。
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(家原寺の行基誕生塚の石碑)
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(家原寺の行基誕生塚にある六角堂)
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(家原寺の御堂)
 私たちは拝観料200円を払って家原寺の境内を散策し、行基菩薩誕生塚の石碑や六角堂を見学した。その近くには、左に興正菩薩、中央に行基菩薩、右に弘法大師と書かれた御堂があった。中に入ることができなかったので、外からのぞいてみると中は薄暗くよく見えなかったが、どう見ても像は2体しかなかった。
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(家原寺のぼけ除け観音像)
 さらに境内には「ぼけ除け観音像」まであった。いつの時代に造られたのかはわからないが、昔からぼけを避けようとする願いがあったのか、それとも今のご時世にあわせて造られたのであろうか。
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(家原寺の三重の塔)
 最初、お寺に入った時には気づかなかったが、このお寺にも立派な三重の塔が見えていた。
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(家原寺の行基の像)
 私たちがお寺を出ようとすると行基の像が見え、像の周りを熱心に何回も歩いている人達がいた。いわゆるお百度参りとなっており、願いをかなえるために拝んでいる姿が見えた。
 
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 11月17日の日曜日に私たち夫婦は、「堺百舌鳥野歴史ウォーク2013」(行基の足跡をたずねて)に参加してきました。
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(コースの地図)
 午前8時30分に百舌鳥八幡宮に集合し、主催者の挨拶などを終えて、いよいよ私たちは9時に出発しました。
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(百舌鳥八幡宮)
 今回はスタンプラリーとなっており、ゴールの百舌鳥八幡宮を入れて、8つのスタンプを押さなければならない。最初の目的地はけんさき広場で、百舌鳥八幡宮から3.4㎞ある。主催者からもらった資料によると、けんさき広場は、「百済川と石津川の合流点。江戸時代から石津川では木綿が晒され、下流には蛭子命(戎さん)が天磐樟船に乗って漂着したという伝説がある。」と書いてある。百済川という名は大阪の各地に残っている。現在、大阪市内のコリアタウンの近くを流れている平野川も昔は百済川と呼ばれている。古代に朝鮮半島から技術者集団として渡ってきた渡来人が多く住んでいた所だといわれている。おそらくこの辺りも渡来人が多く住んでいたのであろう。資料にあるように、今でも川沿いには木綿の晒しを染める工場が残っており、化学染料の臭いがしていた。資料にある「蛭子命」とは、古事記の記述にイザナギイザナミとの間にできた最初の神であるが、不具の子に生まれたため流されてしまう。流された蛭子神が流れ着いたという伝説は日本各地に残っており、この地域もその一つであろう。また、漂着物をえびす神として信仰するところが多く、ヒルコがえびす(戎)と同一視されるようになった。また、資料の「天磐樟船」とは、「あめのいわくすふね」と読み、日本書紀によれば、「神が乗る船 くすのきで作られた丸木舟)に載せて 風の順(まにま)に放ち棄つ 」と記述されている。
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(家原寺)
けんさき広場の次の目的地は家原寺であり、出発地点から5、7㎞ある。資料によると、家原寺は「行基が慶雲元年(704年)37歳の時に、母方の実家のあった当地に建立された。本尊は文殊菩薩で日本三大文殊に挙げられる。境内に『行基菩薩誕生塚』がある。」と書いてある。
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(家原寺の仁王さん)
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(家原寺の仁王さん)
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(家原寺の案内板)
 さらに家原寺の「案内板」によると、「飛鳥・奈良時代の高僧行基(668~749)は、この地で生まれ、仏教の民間布教と同時に、灌漑用の溜池を造るなどの社会事業を推し進めました。」とあり、また「本尊の文殊菩薩は『知恵の文殊』として一年を通して数多くの参拝者があり、特に受験生が多く、合格祈願に訪れることで有名です。」とある。娘の高校受験の時に私たち夫婦も一緒にこの寺に来たことを覚えている。
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(お寺の周りには合格祈願の布が貼られている。)

 
 
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猪飼野新橋
 コリアタウンを東に歩いていくと平野川に突き当たる。以前、この川には猪飼野橋が架かっていたが、現在は猪飼野新橋が架かっている。この橋について資料では、「猪飼野新橋は平野川に架かる橋長18.5mです。1987年に完成しました。親柱は前方後円墳の形、高欄の支柱は勾玉の形をしています。高欄には『為橋於猪甘津即号其処曰小橋也』日本書紀に記された14文字の銘板を配するなど、この地が古代から開けた土地であることを表しています。」と書かれてある。私の写真は橋全体を写そうと思い遠くから撮ったので、勾玉の形はわかるが日本書紀の14文字の銘板は見えにくいものとなってしまって残念である。
 私たちは、「猪飼野新橋」の見学後、コリアタウンに戻って「焼き肉定食」を食べ、フィールドワークを終えた。今回のフィールドワークは、私の生まれ育った身近な場所を見学したが、知らないことばかりで大変勉強になり楽しかった。次回のフィールドワークもぜひ参加したいものである。(おわり)
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コリアタウン
 次に私たちが訪れたのはコリアタウンである。コリアタウンは環状線の桃谷駅と鶴橋駅の中間あたりにある.なぜこの地にコリアタウンができたのかについて、志賀さんの資料によると、「猪飼野は古代より朝鮮半島の渡来人の居住する場所でありましたが、近代以降、平野川(百済川)の改修などで、植民地朝鮮から多くの労働者が移り住み、生野区、特に猪飼野と呼ばれた地域は、現在でも、在日コリアンやコリアン系日本人の占める割合が高いです。その中で、御幸通り商店街は日本人の商店街でしたが、アジア太平洋戦争中に空襲を避けて、多くの日本人が疎開したこともあって、多くのコリアンが進出し、朝鮮市場と呼ばれました。20年ほど前までは、あまり注目されず、人通りもあまり多くなかったのですが、1993年頃からコリアタウンと呼ばれるようになりました。・・・豚足・豚頭・ホルモンなどのある精肉店、キムチなどの食料・食材を売る店、チマ・チョゴリなどの衣類・雑貨の他、最近では韓流ブームのなかで、KーPOPや韓流スターのさまざまなグッズを売る店も増え、日本人客も増えています。食料品店では、班家食工房が有名。焼き肉の「パゴダ」や御幸通からは外れるが、喫茶店も兼ねた『流れる千年』もよく知られている。」と書かれている。
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つるの橋跡
 次に私たちが訪れたのは「つるの橋跡」である。現在、JR線や近鉄線に「鶴橋」という駅がある。私は東成区深江という町に生まれ育った者であるから、鶴橋はなじみの深い所であるが、名前の由来が「つるの橋」から来ていることを初めて知った。資料によると「堂ヶ芝廃寺周辺から東にかけて、朝鮮半島からの渡来人が多く居住した地域で、猪飼野と呼ばれていました。猪飼野の地名は渡来人が豚の飼育を行っていたからだとされています。」とある。私は、猪飼野に朝鮮人が多く住んでいるのは、近現代に入ってからだとばかり思っていた。日本の朝鮮侵略によって土地を奪われた人たちや、強制連行によって連れてこられた人たちが住み着いたところであると認識していた。しかし、古代から猪飼野という名前が付けられ、技術を持った渡来人が多く居住していたとは驚きである。また、「つるの橋」について、資料によると「猪飼野を流れる川を昔、百済川といいました。その百済川に架けられた文献上では、日本最古の橋が『つるのはし』です。当時の渡来人の技術が駆使されていました。日本書紀に『仁徳天皇猪甘津(いかいつ)に橋をつくる、この処を小橋と名付く』とあるのは、このはしのことです。現在では、百済川(平野川)は改修されて、流路が変更されています。そのため『つるの橋』の場所は、川からはかなり外れた場所になっていますが、そこに記念碑と明治時代の石橋の親柱が残されています。」とある。小橋がなぜ「つるの橋」になったのかということについては、「生野区役所の案内」によれば、「この辺りに鶴がよく飛んで来たところから、いつのまにか鶴橋と呼ばれるようになった。」と書かれてある。
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堂ヶ芝廃寺(百済寺跡)
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 次に私たちが訪れたのは、JR桃谷駅の北西にある堂ヶ芝廃寺で、現在は豊川閣観音寺というお寺になっている。資料によると「この辺りは昔、百済郡と呼ばれ、百済の王族をルーツとする渡来人の居住した地域です。その百済王(くだらのこにきし)氏の氏寺の跡と考えられています。・・・境内から白鳳期から奈良時代の瓦が多く出土しています。」とある。
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四天王寺
 次に私たちは四天王寺を見学した。
私は四天王寺の周辺の道路は車で良く通っているが、四天王寺に入った記憶がない。なぜこの寺を訪れたのかというと、やはりこの寺もコリアとの関係が深いのである。志賀さんの資料によると「四天王寺は593年に聖徳太子が建立したといわれる日本仏教最初の官寺です。その様式は百済の様式であり、建設には、渡来人の技術者集団が関わったとされ、その技術者集団が世界最古の会社とされる『金剛組』だとされています。」とある。この日、たまたま修理業者の人から話を聞いたのであるが、つい最近まで「金剛組」が四天王寺の改築・修理を優先的にまかされていた。しかし、現在はその関係はなくなり、建設会社の一つとして入札に参加しているとのことである。
 私たちは四天王寺の本堂や五重塔を見学したが、五重塔を登ることができるとは知らなかった。大変きつい階段を登ってやっと最上階に達したが、金網などに囲まれて、見晴らしは良くなかった。
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四天王寺(下馬石)
 さらにこの寺とコリアとの関係について、資料によると「本坊西通用門前や本坊の庭園を入った所の下馬石の文字は朝鮮通信使一行の金義信(キム・イシン号は雪峰)が書いたとされます。最近の研究では、年代が合わないという説もある。」とある。 
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