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●鄭和の西洋下り●
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 明王朝時代の鄭和が活躍したのは15世紀の初めであった。鄭和は2万7800名の乗員を乗せた62隻の船体を率いて、東南アジアの諸国から、インド洋・ペルシャ湾のちには紅海沿岸をへて、アフリカ東海岸にいたる海域を舞台として活躍した。彼の海上活動は、1405年から1433年における28年間に、7回にもわたりくりひろげられ、訪問国は30数カ国にものぼったといわれる。ここでいう西洋とは、泉州からスマトラ東部の線をもって、南海を東洋、西洋にわけた中国人による地域区分で、彼の遠征を「鄭和の西洋下り」と呼ぶ。記録によると、鄭和が乗った主力船の大きさは、現在の8000トンクラスに匹敵するという。1498年に喜望峰をまわってカリカットに到達したバスコ=ダ=ガマの船が120トンで、しかも3隻にすぎなかったことと比較すると、鄭和の船団の規模がいかに大きかったかがわかる。
 鄭和に航海を命じたのは明の永楽帝であり、その目的は明の国威を各地に広げ、朝貢を促すことにあったといわれている。「鄭和の西洋下り」によって、国王みずから来朝したのが4カ国、使節が来朝したのが34カ国にのぼったという記録があるから、その目的は達成されたように思われる。しかし、鄭和の航海には莫大な費用がかかった。のちに劉大夏という役人は、「鄭和の西洋下りは銭量数十万を浪費したばかりか、軍民の犠牲も万をもって数えるほどの多数にのぼった。奇宝を得て帰ったといっても、国家のためには何の利益もなかった。」とみなして、鄭和の記録を破棄してしまったほどである。また、朝貢貿易を維持するには莫大な費用を必要とした。その結果、宣徳帝以後、明の財政が悪化すると、「鄭和の西洋下り」のような大航海事業はおこなわれなくなったのである。
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●旅の王者 イブン=バトゥータ●
 アメリカの雑誌『ナショナル・ジオグラフィック』1991年12月号の特集は「旅の王者 イブン=バトゥータ」であった。それは、イブン=バトゥータ(1304~77年)の足跡をたどった旅行記である。従来、世界の旅行家というとマルコ=ポーロなどがあげられていたことを思えば、イスラーム教徒の彼がとりあげられたことは、意義のあることだろう。
 イブン=バトゥータの足跡を知ることができるものとして、『三大陸周遊記』がある。この書物は、彼が旅を終えたあと、学者であるイブン=ジュザイイに語り伝えられたものである。現代の研究者にも、その記述は貴重な内容のものであることが認められている。
 イスラームの歴史学者である前島信次氏によると、「イブン=バトゥータとはその家系を示す名で、本名はムハンマド、父はアブダルラーという人であった。この一家は実はルワータというベルベル人の一族に属し、もとは今のリビア地方におり、後にモロッコに移ったもので、今でもかの地にはイブン=バトゥータと名乗る人々がいるそうである。ゆえに純粋のアラビア人ではないのであるが、アラビア文化に同化したために広い意味でのアラブ族といってさしつかえないであろう。また本人も自らアラブ族だといっている」と述べている。
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イブン・バトゥータの旅行路(「東京書籍 新選世界史B」より)
 旅行記によると彼が旅に出かけた期間は、1335年の22歳から、1354年の51歳までの29年間にわたる。この29年間に彼が旅したルートを大きく分けると次のようになる。
① 1325~1327年 モロッコからメッカへの巡礼の旅
② 1328~1331年 メッカ滞在。東アフリカ、アラビア南岸を旅行
③ 1332~1333年 小アジアから中央アジアをこえてインダス河畔の旅
④ 1334~1341年 デリー滞在(法官としてトゥグルック王に仕える)
⑤ 1342~1345年 カリカット・セイロン・ベンガル・スマトラをへて泉州・大都(北京)の旅
⑥ 1346~1350年 南海経由でインド・バグダッド・メッカ・カイロを経てモロッコへの旅
⑦ 1351~1354年 スペイン訪問、サハラの奥地への旅
 29年間にもわたるアジア・アフリカ・ヨーロッパの旅の目的は何であったのか。彼はその動機について、「わたくしがふるさとのタンジール(モロッコ)を出たのは聖地メッカの巡礼をおこなった後、メジナなる預言者の御墓に詣でるためであった。1人の同行者もなく、キャラバンの群に加わるのでもなく、ただ聖地を訪れるのだとの希望に胸をふくらませ、固い決意をひめて旅路に出た」と述べている。聖地への巡礼がそもそもの動機であった。それだけではとどまらなかった。聖地からはるかに遠い世界に旅立たせたその理由は、未知の世界へのあこがれと、あくなき探究心であったように思われる。
 経済力もないイブン=バトゥータが単独でこのような大旅行ができたのはなぜだろうか。その答えは14世紀のイスラーム社会のネットワークの広がりにあるようだ。彼が旅した世界は、中国をのぞいてほとんどの国がイスラーム世界であり、しかも当時の中国はイスラーム教徒に寛大な元王朝の時代であった。旅行記によると彼はデリーや故郷のモロッコで法官となっている。それは彼がイスラーム教の神学者であり法学者でもあったということだ。このような人が、その頃のスペイン、モロッコからインドに連なるイスラーム世界を歩けばいたるところで厚遇され、衣食や旅費に困ることはなかったのであろう。中国に行っても広東や泉州のようなイスラーム教徒の居留地があるところでは、何の不自由もなかったのである。
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 次に私たちが向かったのは「城南射撃場跡」です。志賀さんの資料によると、「かって、この場所に東西に細長くコンクリート製の体育館をつなぎ合わせたような建物がありました。第8連隊・第37連隊の兵士が小銃・機関銃の実弾射撃訓練を行う施設でした。戦後は陸上自衛隊の施設となっていましたが、1969年に大阪市に移管され、大阪城公園及びその駐車場となっています。」とある。この跡地はピ-スおおさかから西に歩いたところにあり、私はこのあたりを以前何回も歩いているのに、この場所に「城南射撃場跡」という石碑があることを全くしらなかった。
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城南射撃場跡の石碑
 私たちは「城南射撃場跡」をさらに西に進み教育塔を見学した。教育塔は、1934年の室戸台風で殉職した教員や死亡した多数の児童を弔うために造られたもので、以前、私たちは教育塔の前で行なわれた集会によく参加したものです。
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教育塔
 次に私たちは歩兵第8連隊碑・歩兵37連隊碑の見学へと向かった。
二つの石碑は、大坂城の南側に上町筋の通りをはさんでありました。志賀さんの資料によると「第8連隊は第4師団創設の前、1874年に作られた日本最初の歩兵連隊の1つ。最初は現在の国立病院機構大阪医療センターにありましたが、それを歩兵第37連隊に譲る形で、向かい側に移りました。第8連隊の場所は、難波宮のあった場所で、日赤病院を経て、史跡公園となっています。第37連隊は1896年に、それまでの7個師団体制から13個師団体制となる中で、新たに創設されました。軍隊内でのリンチを描いた、野間宏の『真空地帯』のモデルとされます。」とある。
 この石碑の前で志賀さんは、なぜ第8連隊の横に第37連隊とばらばらな番号が置かれたのかを資料も見ないでとうとうと説明してくれた。彼の博識には感心させられた。また、この資料にある『真空地帯』はまだ読んでいないのでぜひ読んでみたいと思った。
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歩兵第8連隊の石碑
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歩兵第8連隊の碑文
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歩兵第37連隊の記念碑
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 今回のフィールドワークは、「大阪城周辺に戦争の痕跡をみる」というテーマで2月26日(日)に行なわれました。すばらしい内容であったにもかかわらず、参加者が6名と少なかったのが残念です。
 私たちは、大阪城といえば豊臣秀吉を連想し、やがて大阪夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失し、江戸時代に再建されたことは知っている。しかし、大阪城の周辺には明治維新以来「大阪砲兵工廠」と呼ばれるアジア最大の軍事工場があったことはあまり知られていない。ここでは、大型の大砲を中心に爆弾・戦車から兵士の飯盒まで製造していたのである。
 当日は、午後1時にJR森ノ宮駅の改札口に集合し、最初に「ピースおおさか」に向かった。案内役の志賀さんの説明によると、環状線の京橋と森ノ宮駅間は、高架にはなっておらず地上を走っている。その理由は、大阪砲兵工廠のなかを見せないためである。私の実家は大阪市内にあり、小さいときから森ノ宮駅を利用していたが、このようなことは全く知らなかった。
 志賀さんの資料によると、「ピースおおさかは大阪砲兵工廠の診療所があった場所で、砲兵工廠では、労働災害が多かったために設置された。アジア太平洋戦争の敗戦後は東市民病院、身体障害者センターを経て、1991年にオープンされた。」とある。場所については、下の地図を参照してください。
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大坂城周辺の地図
 1人500円の入場料を払い展示室に入ったが、最初に目に飛び込んできたのは、アメリカ軍が爆撃した
1トン爆弾と私たちの足の下には、爆撃を受けた当時の難波の高島屋、歌舞伎座などの模型である。
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1トン爆弾
 展示室Aには、さらに大阪空襲の状況をあらわした映像や防空壕の模型、戦時下の大阪の人々の生活の様子が展示されている。また、展示室Bには満州事変・日中戦争・アジア太平洋戦争に関するもの、南京大虐殺やアウシュヴィッツなどの展示もあった。
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アウシュヴィッツの地下牢

 
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「東欧の改革とペレストロイカ」
資料【A】ポーランド・グダニスク協定(1980年8月31日)
 三十日グダニスク市の政労交渉で調印された「自由労組」に関する合意書の内容は次の通り。
一、新労組は既存の労組と並行して結成され、名称は「自主管理労組」とする。
一、新労組は労働者の立場を代表し、憲法のわく内で交渉し、反党、反政府あるいは外国との同盟に反対する行動はとらない。
一、新労組は政府の経済政策のうち、投資、賃金、物価問題について発言権を強められる。
一、新労組は統一スト委員会を母体に結成する。
一、スト権にはストの自由、保障、組織が含まれ、これらの点は今後法的に規定される。
                         (『朝日新聞』1980年8月31日)
資料【B】ペレストロイカ
 ソヴィエト連邦は非常に緊迫した時期を迎えている。共産党は1980年代中頃までの状況に批判的分析を加え、ペレストロイカすなわち立て直しの政策を採用した。国の社会的・経済的発展を促進し、生活のあらゆる面を刷新しようという政策である。・・・ペレストロイカは社会全体に活気を与えている。たしかに我が国は広大であり、問題は山積みしているし、解決は容易ではないだろう。だが変化は始まったのであり、もはやあともどりはできないのだ。
・・・この歴史的とも言える新しい思想には、実に現代のあらゆる基本的問題が含まれている。現在の世界に存在する矛盾対立、社会政治体制の相違、さまざまな時代にさまざまな国によってとられた選択のちがい、こういったいろいろなちがいがあるにもかかわらず、世界は一つなのである。われわれはみんな、地球という船に乗り合わせた乗客であって、この船を難破させるわけにはいかない。
 政治は現実に立脚していなければならない。そして、現在の世界におけるもっともおそるべき現実とは、米ソが備蓄している大量の通常兵器と核兵器である。このため、米ソは全世界に対して特別の責任を負っている。この事実にかんがみ、われわれは、米ソ関係の改善を心から願い、少なくとも、世界の将来に重大な係わりを持つ問題の解決にぜひ必要な、最低限の相互理解を得たいとおもっている。
                 (ゴルバチョフ『ペレストロイカ』講談社、1987)
1980年7月、食肉などの大幅値上げの発表から始まったポーランドのストライキは、ワレサを委員長とする統一スト委員会と政府との間で合意が成立した。これがグダニスク協定と呼ばれるものである。協定【A】は、官製の労組とは異なる、自由な労組の結成が認められるとともに、スト権が与えられたことに大きな意義を持っている。ただこの労組は憲法のわく内で行動し、反党的、反政府的、さらにポーランドとの同盟国に反する行動は取らないという制約を受けることになる。これは労組側にとっても、ソ連の介入を避けるためにはやむをえないことであったろう。1956年のハンガリー動乱、68年の「プラハの春」と、国民の民主化への期待が二度にわたってソ連軍によって圧殺されてきた東欧だけに、ポーランド労働者の勝ち得たものは画期的なことといえるであろう。合法的に認められた自主管理労組「連帯」は、80年の年末までに950万の労働者を結集した。ポーランドは、ストのために経済は悪化し、政権を引き継いだヤルゼルスキは、「連帯」労組を一時非合法化するなどの厳しい措置をとった。しかし問題は解決せず、政府はポーランドの政治、経済などの根本的な立て直しを迫られていった。そしてこのような社会主義国における立て直しは、ソヴィエト連邦のペレストロイカとして推し進められるのである。
 ペレストロイカ【B】を推進したゴルバチョフが政権に就いたのは、1985年であり54歳という若さであった彼が書記長に推薦された背景には、ブレジネフ長期政権下での硬直した官僚主義や停滞した経済を立て直すために、若く精力的なリーダーが求められていたという事情がある。86年の第27回党大会では、経済をはじめあらゆる分野における改革と官僚主義との断固とした闘争を主張し、新綱領も採択された。そして、その年の4月におきたチェルノブイリ原子力発電所の事故は、ペレストロイカをより徹底して推進させることになった。ゴルバチョフが国内政策とともに根本的な改革を迫られたのは、対外政策とくに米ソ関係であった。米ソの核開発を中心とする軍拡競争は、ソヴィエト連邦の軍事費を飛躍的に拡大させ、ソヴィエト連邦経済を圧迫した。そのためゴルバチョフはアフガニスタンからのソ連軍の撤退をはじめ、87年には米ソ中距離核戦力全廃条約、さらに翌年の国連総会でソ連軍の50万人削減を宣言した。このようなペレストロイカの進展は、やがて東欧に大きな影響を与えていくのである。
  参考文献 ダニエル・シンガー『ポーランド革命とソ連』(TBS ブリタニカ、1981)
 以上、「戦後史から何を学ぶか」は、青木書店から1995年に出版されたもののなかから、私の執筆部分を掲載したものです。
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「アジアにおける民主化の動き」
資料【A】中国共産党第11期中央委員会第六回総会(六中全会)
a 建国以来の党の若干の歴史的問題についての決議(1981年6月29日)
一、(省略)「文化革命」(以下文革と略)によって党と人民は建国以来最大の挫折と損失をこうむった。
一、実践が物語っているように文革がいかなる意味でも革命的な社会的進歩ではなく、またこうしたものではありえなかった。(省略)
一、(省略)文革というこの全面的な、長期にわたる左よりの重大な誤りについては、毛沢東同志に主な責任がある。しかし、毛沢東同志の誤りは、究極的には偉大なプロレタリア革命家の犯した誤りであった。(省略)
一、(省略)彼は文革で重大な誤りを犯しはしたが、彼の一生からみると、中国革命に対する彼の功績は、彼の誤りよりはるかに大きい。毛沢東同志にあっては、彼の功績は第一で、誤りは第二義的なものである。(省略)
一、(省略)中国を近代化された高度な民主と高度の文明をもつ社会主義強国に一歩一歩築きあげるため奮闘するよう呼びかける。

b 選出された党指導部の構成
 中央政治局常務委員
 中央委員会
 主席    胡耀邦(総書記)
 副主席   葉剣英(全人代常務委員長)
 副主席   鄧小平(党軍事委員会主席)
 副主席   趙紫陽(首相)
 副主席   李先念
 副主席   陳雲(党中央規律検査委第一書記)
 副主席   華国鋒(前党主席)
                           (『毎日新聞』1981年7月1日)
資料【B】 コラソン・アキノの演説(1986年2月25日)
 ついに私たちは「家」に戻ってきました。1986年2月25日、この日を忘れないでください。時期は夜の9時、出来事は自由の再来、すなわち独裁政治からの解放です。二十年間にわたる虐待、抑圧、不正、荒廃、絶望の日々は終焉しました。これらの日々に終止符を打ったのは、民衆の勇気ある革命でした。これは真実です。フィリピン人はまさに勇敢であり、偉大なのです。私はフィリピン人として生まれて、これほど誇らしく思ったことはありません。この気持ちを、すべてのフィリピン国民と分かち合いたいのです。(省略)
 そして私は、ニノイを思い起こさずにはいられません。彼の死をグッド・フライデー(聖金曜日)に、また私たちの解放をイースター・サンデー(復活祭日)にたとえたいと思います。ニノイはきっと今、天国からほほえみかけています。彼の主張と行動が正しかったことを、私たちが立証したからです。
       (若宮清『コラソン・アキノ ――― 闘いから愛へ』立風書房 1986)

 1986年から始まった文化大革命は、76年の四人組の逮捕で終息した。文革の原因は、毛沢東が当時共産党の実権を握っていた劉少奇などから権力を奪回するために起こされたものであるといわれるが、この時点ではまだ毛沢東への責任を明らかにすることはできなかった。ようやく5年後、六中全会決議の資料【A-a】に見られるような毛沢東批判が現れたのである。この時、政治権力を握ったのは鄧小平であり、政治局の陳雲とともに鄧陳体制が確立した。(資料【A-b】参照)
 文革は社会の全階層を混乱のなかに陥れ、経済的にも5千億元の損失を生み、1億人以上の人々が政治的社会的被害を受けたといわれる。文革以後の中国は、経済再建のために人民公社を解体し生産請負制を導入した。その結果、食糧総生産量が増大するとともに民衆の生活水準にも大きな向上がみられ、農民一人当たりの平均収入も79年から83年の間に約2倍になり、万元戸と呼ばれる富裕農家も多数現れた。また大胆な対外開放政策が打ち出され、広東省や福建省に経済特区が設けられ、西側の資本、技術、経営管理が積極的に導入された。現代の中国が行っている改革・開放政策がこの頃に確立したことを押さえたい。
 フィリピンのマルコス政権は、86年の「二月革命」で民衆の力によって崩壊した。マルコス政権は、大地主を抑圧して新興工業企業家をとりこみ、農民の上からの新たな組織化によって権力を固め、さらに金と暴力という不正選挙によって政権の永続化を計り、独裁体制を樹立したのである。しかし、20年に及ぶ長期独裁体制は、門閥政治の側面を強め、政治運営の腐敗・汚職の横行が進んだ。これに対し、国民各層の抵抗が強まったが、米国も米軍基地から基地貸与料を徴収しようとするマルコスに不満を持っていた。マルコスにかわるべき人物としてベニグノ・アキノが求められたが、83年にアキノは暗殺された。この暗殺事件を契機に反マルコスの大衆運動が高まり、これを抑えるためにマルコスは大統領選挙を早めたが、反政府勢力はアキノ夫人を候補者として内外の支持を得た。そして、86年の大統領選挙におけるマルコスの不正は、民衆の怒りを招き、マルコスは亡命をよぎなくされアキノ政権が誕生したのである。資料【B】は、コラソン・アキノがマルコスのマラカニアン宮殿脱出を確認した後の第一声である。
  参考文献 土井正興ほか『戦後世界史』(大月書店 1989年) 
       池田誠『図説中国近現代史』(法律文化社 1988年) 
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「ヨーロッパの新しい動き」①
資料【A】反核運動(クレーフェルト宣言)(1980年11月16日)
 1979年12月12日のNATOの決議が致命的に誤った決定であったことがますます明瞭になってきています。アメリカの新型中距離ミサイルが西ヨーロッパに配備される前に、ヨーロッパの戦略兵器体系を制限するための米ソ間の協定が成立する見通しはないようにみえます。
・・・クレーフェルト討論の参加者は、一致して政府に対して次のように訴えます。
・・・パーシングⅡ型ミサイルの中部ヨーロッパへの配備を撤退すること。
・・・以上に関連して今後は、とりわけヨーロッパの人々を危険にさらすような新たな核軍拡競争の先兵となるかのような疑いをもたれないような態度をとること。
・・・したがって世論の不断の圧力によって以下のような安全保障政策を政府にとらせるために、全市民がこのアピールを支持するように訴えます。
・・・中部ヨーロッパをアメリカの核兵器置場にする軍拡を許さず
・・・軍縮を威嚇よりも重視し
・・・西ドイツ国防軍をこの目的にむけて発展させること。
                (近藤和子ほか編『ヨーロッパ反核79~82』野草社、1982)
資料【B】ヴァイゼッカー演説(1985年5月8日)
 今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下していない行為に対して自らの罪を告白することはできません。/ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
 罪の有無、老幼のいずれかを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。/心に刻みつづけることがかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わなければなりません。また助け合えるのであります。/問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
          ヴァイゼッカー『荒れ野の40年』岩波ブックレット、1986)
(解説)
 1975年にヘルシンキで開かれた「全欧安保協力会議」で主権尊重、武力不行使などの原則が採択された。ヨーロッパの緊張緩和が進むかに見えたが、79年にNATOがヨーロッパに中距離核戦力を配備することが決定してから、再び緊張が高まってきた。この中距離核戦力とはパーシングⅡ型ミサイルのことで、これは人工衛星によってえた目標地域の映像をコンピューターに記憶させるため高い命中精度をもつ。しかも弾道ミサイルだから分速300キロ、6~7分で目標に到達する。恐るべき核兵器がソ連のミサイルSS20に対抗してヨーロッパに配備されることが決定されたのである。この決定に反対して出されたのが「クレーフェルト宣言」である。クレーフェルトは西ドイツの小さな町で、「私たちは皆、核戦争による脅威の下にある・・・ヨーロッパに核ミサイルを置くな」というスローガンのもとに、ここでシンポジウムが開かれた。このシンポジウムのまとめとして発表されたのが資料【A】の宣言で、西ドイツ政府に対してNATOの決定の撤回を求めたものである。宣言の署名は大衆的に拡大され、西ドイツ反核・平和運動の共通の意志となった。これ以後、反核集会は毎年のように開かれ、83年には「人間の輪」と呼ばれて130万人が参加するにいたった。このような反核・平和運動の拡大にもかかわらず、83年11月の西ドイツ連邦議会では中距離核配備が決定された。
 このような西ドイツの保守化傾向のなかで、85年5月にはアメリカのレーガン大統領と西ドイツのコール首相によって、ナチス親衛隊の墓もある軍人墓地で花輪を捧げるという行動がおこなわれた。この年は、ドイツの敗戦40周年に当たっており、このような行動は、ナチスに対する戦争責任の風化を思わせた。まさにこの時、ヴァイゼッカー演説資料【B】が、連邦議会において1時間にわたっておこなわれたのである。大統領は保守党であるキリスト教民主同盟出身の政治家であるが、演説のなかで記憶をよみがえらせることの重要性を若者たちに訴えて、ナチスの戦争責任を風化させてはならないと説いている。演説のなかの「過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目となります。」という言葉は世界の多くの人々に感銘を与えたのである。日本の戦争責任のあり方と比較させてみる必要があるだろう。
 参考文献 近藤和子ほか編『ヨーロッパ反核79~82』/ヴァイゼッカー『荒れ野の40年』
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 11月19日(土)午後12時30分より自宅で「お好み焼きパーティー」をおこないました。
参加者は、私を入れて8名です。藤井さんご夫婦がこれなかったのは残念でした。
そのあと、2時より4時までいつものように「歌声」で懐かしい歌をたくさん歌いました。
 次の26日の土曜日は、「第10回世界史講座」です。、テーマは「秦漢帝国の形成」の続きと「三国・南北朝時代と遊牧国家の動向」です。ぜひ皆さん参加してください、待っています。
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●現代の民族対立●
 1960年代にはいると、教育の普及やマスメディアの発達などの近代化によって、いままでのエリート中心のナショナリズム運動は、大衆化されていった。それとともに、統一国民党と自由党の対立も大衆化されていった。統一国民党は、ときにタミル政党とも連合し、イギリス・アメリカとの結びつきを強め、一方、自由党は共産党などと統一戦線を組み、ソ連や中国との関係を深めた。
 バンダーラナーヤカが暗殺されたのち、夫人のシリマーウォーが自由党を率いて1970年の総選挙に臨んだ。自由党は共産党や平等社会党と統一戦線を組んで勝利した。この政府は、1972年に新憲法を制定し、仏教に高い地位を与え、国家はそれを保護・育成する義務を持つことを決めた。ここにいたってタミル人は、連邦スリランカの構想を破棄し、タミル分離国家(タミール・イーラム)の建設を推し進めることになり、その中心となったのがタミル統一解放戦線である。さらにタミル人のなかには、タミル人の独立運動と社会主義革命の実現をめざした、タミル・イーラム解放の虎(LTTE)と称する武装ゲリラも結成された。
 1978年の総選挙では、J・R・ジャワルダナ率いる統一国民党が勝利したが、タミル統一解放戦線も野党第一党となった。タミル政党の躍進は、シンハラ人の反タミル感情を刺激し、1980年代にはいると、スリランカは内戦状態におちいり、冒頭にふれたタミル人に対する大暴動がおこったのである。
 1987年にはインド政府が内戦に介入し、インド軍がスリランカ北部に駐留した。このときシンハラ人のあいだで反インド感情が高まるとともに、左翼の「人民解放戦線」と政府軍のあいだで内戦がおこった。
 一方、政府軍と「解放の虎」とのあいだの武装闘争が続いたが、1994年になり、自由党を中核とする人民連合政府が成立すると、ようやく政府と「解放の虎」とのあいだに対話がおこなわれるようになった。
 スリランカの長い歴史のなかで、シンハラ人とタミル人は対立ばかりをくり返していたわけではない。前途は多難であるが、いつの日か両民族の友好的な関係が実現されるであろう。
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キャンディアン・ダンス
 スリランカの中央部、キャンディを中心とする一帯に広がるダンスのことをキャンディアン・ダンスと総称するが、正式にはウダ・ラタ・ナトゥム(高地の踊り)という。その起源は、コホンバ・カンカーリヤと呼ばれる宗教儀礼にさかのぼるとされる。(『地球の歩き方 スリランカ」より)
 参考文献 渋谷利雄『祭りと社会変動―スリランカの儀礼劇と民族紛争』同文館出版、1988年
      波藤一廣『スリランカで午後の紅茶を』三一書房、1995年
      上田紀行『スリランカの悪魔祓』徳間書店、1990年
(「スリランカの民族紛争」の文章は、『シリーズ知っておきたい インド・南アジア』(歴史教育者協議会編集 青木書店 1997年)に私が書かせてもらったもので、写真は2005年に夫婦でスリランカ旅行をしたときの写真です。)
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●独立後の民族対立●
 世界各地の民族運動の発展と第二次世界大戦は、イギリスの植民地支配体制に大きな打撃を与えた。このような情勢のなかで、1948年2月4日、スリランカはイギリス連邦の自治領として独立が認められた。初代首相に選ばれたのは、セイロン国民会議を改組して生まれた統一国民党のD・S・セーナーナーヤカであった。
 新政権は、タミル人労働者がマルクス主義政党と結びつきを強めたことを理由に、プランテーションのタミル人労働者の市民権を奪っている。また、このころ国旗が制定されるが、デザインには民族間の力関係が表われている。剣を手にしたライオンはシンハラ人を、その回りの菩提樹の葉は仏教を表している。左側のオレンジと緑の部分は、タミル人とムスリムを表している。1956年の総選挙では、統一国民党を脱党して自由党を率いたS・W・R・D・バンダーラナーヤカが政権につき、大農園や銀行の国有化などの社会主義政策を始めた。しかし最も重要なことは、シンハラ語を公用語と定めたことである。この施策は、イギリス軍の基地を返還させるという要求と同様に、スリランカの完全な独立を求めたものであった。しかし、それと同時に多数派のシンハラ人の優位を強調する手段でもあった。これはシンハラ語のできない者を公務員から追放することを意味し、タミル人の多くが失業した。軍隊や警察を含め、公務員のほとんどはシンハラ人が占めるようになった。新政権のシンハラ・オンリー政策は、タミル・ナショナリズムを大いに刺激し、連邦スリランカ内における自治権を要求する運動がおこるようになった。これに対し政府は、タミル人が多数を占める北部や東部の州では、タミル語を国語にするという法案を可決した。このような政府の措置は、熱狂的なシンハラ・ナショナリストにとって堪えがたいものとなり、1959年9月、バンダーラナーヤカ首相は僧侶により暗殺される。それ以後の政権は、統一国民党と自由党が交互に担っていくのである。
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「バンダーラナーヤカ記念国際会議場」
コロンボは数多くの国際会議が開かれてきたことでも有名。その舞台がこの会議場だ。現代的な建物は中国から寄贈されたもの。入口には仏教国を自称するだけあって、アウカナ・ブッダを模した12mの仏像が建っている。この中に故バンダーラナーヤカ首相の業績を展示した博物館がある。イギリス支配から独立に導いたバンダーラナーヤカが残した業績の数々を、彼のあとに世界初の女性首相に就任したスリマオ夫人のエピソードもまじえて展示している。(『地球の歩き方 スリランカ』より)
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