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●仏教復興運動●
 イギリスは、最後まで抵抗していた仏教国のキャンディ王国を滅ぼし、この島を紅茶の一大プランテーションに変えてしまった。それとともにキリスト教優位の政策を推し進め、仏教の地位はおとしめられてしまったのである。
 このような植民地支配のもとで、19世紀末、スリランカ近代仏教の祖アナガーリカ・ダルマパーラが現れた。彼の説いた仏教は、従来の出家者中心の仏教から在家者中心の仏教へ、またキリスト教への対抗意識をむき出しにしたナショナリズム的仏教であった。彼は、スリランカは仏法の島であり、仏教を信仰してきたシンハラ人の島であると主張した。彼の仏教復興運動はシンハラ人の民族意識を高め、スリランカ独立への道を大きく切り開いた。しかし、これらの主張は、スリランカは仏教徒のシンハラ人のものであるという論理につながる。そのため、キリスト教徒のイギリス人だけでなく、タミル人ヒンドゥー教徒やムスリム、シンハラ人キリスト教徒も攻撃の対象となってしまった。
 20世紀に入ると、シンハラ・ナショナリズムは、労働運動や政治運動へと広がりを見せてきた。このような民族運動の発展のなかで、イギリスの植民地政府がおこなった対策は、イギリス式の議会制度を導入することであった。1919年にセイロン国民会議が創設され、シンハラ人やタミル人の代表が参加し、1931年には、アジア最初の普通選挙が実施された。しかし、このような政治活動に参加できたのは、タミル人を含む富裕なエリート層でしかなかった。
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上の仏像や壁画はダンブッラの石窟寺院にある。
 この寺院は、紀元前1世紀にシンハラ王のワラガムバーフ王によって造られたのが最初。王は、当時首都であったアヌラーダプラからタミル軍の侵略によって追放され、一時ここに身を隠しながら王権奪回の機会を狙っていた。その後、タミル軍を破り、再び王座に返り咲いた王は、感謝の意をこめてここに寺院を建てたという。初めは少なかったであろう仏像や壁画も次第に数が増え、ポロンナルワ期、キャンディ期には各時代の王によって何度も修復された。(『地球の歩き方 スリランカ』より)
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●シンハラ・タミルの歴史的関係●
 現在、スリランカの74%を占めるシンハラ人は、アーリア系の民族で仏教徒が多く、人口の18%を占めるタミル人はドラヴィダ系で、ヒンドゥー教徒が多い。ただ、タミル人のなかには、古くからスリランカに移住してきたスリランカ・タミル人とイギリス植民地支配のもとで、紅茶プランテーションの労働者として移住してきたインド・タミル人とに区別されている。
 今日、シンハラ・タミル問題は、仏教徒とヒンドゥー教徒のあいだの2500年来の対立ととらえられているが、それは歴史をねじ曲げたものである。7世紀に南インドでヒンドゥー復古主義が高まる以前は、タミル諸国でも仏教が信仰されていた。また、シンハラ王国とタミル王国とのあいだで戦争もおこなわれたが、同盟や姻戚関係も結ばれている。内陸部のキャンディ王国は南インドのタミル人、マドゥライ(タミル・ナードゥ南部)の領主と姻戚関係にあり、代々の王位継承者はマドゥライから招かれた。王はヒンドゥー教から仏教に改宗し、シンハラ王国の民衆の支持を得ていたといわれている。
 このようにシンハラ・タミルの多様な関係が、民族間の敵対関係に変わるのはいつのことか。それはイギリスの植民地支配に対する民族独立運動のなかで形成されたのである。
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以上の絵はシーギリアロックの壁画に描かれていたもので、私が以前インドのアジャンタの石窟寺院で見た観音菩薩の壁画とよく似ていた。
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●はじめに●
 1983年、シンハラ人兵士によるタミル人女性への暴行、その報復としておこなわれたタミル・ゲリラによるシンハラ人兵士の殺害事件。これを契機として、シンハラ人によるタミル人への攻撃がコロンボ市内で始まった。シンハラ・ナショナリストらは、タミル人の商店や住宅にガソリンで火をつけて回ったり、コロンボの刑務所を二度にわたって襲撃して、多数のタミル人政治犯を虐殺した。こうした行動に触発されて、一般大衆によるタミル人への掠奪や焼き打ち、暴行が展開されたのである。
 スリランカの北部に住むタミル人たちの分離独立を求める運動と、それを断固として認めないシンハラ人のあいだの争いは、現代のスリランカが抱える最も大きな問題である。両者の対立がなぜこのような深刻なものとなってしまったのか、スリランカの現代史を中心にその答えを探っていこう。
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スリランカの世界遺産となっている「シーギリヤ・ロック」(本文とは関係ない写真です。)
「この地は、古代から仏教僧たちの修験場であった。5世紀後半、ほんの11年間この地を統治し、壮大な岩山に傑作を残した狂気の王カーシャバの伝説は、広くスリランカの人々に言い伝えられている。カーシャバは、459~477年にアヌラーダプラを統治し、広大な貯水池を建造したダートゥセーナ王の長男だった。カーシャバには腹違いの弟モッガラーナがいた。弟の母親は王族の血筋の女性であり、カーシャバの母親は平民の血筋の女性であった。このため、カーシャバは弟モッガラーナに王位の継承権を奪われるのをおそれ、実父ダートゥセーナ王を監禁して王位を剥奪した。弟モッガラーナは、兄の行為に憎しみを抱きながらもインドに亡命した。その後カーシャバは父に『隠してある財産を全部出せ』と要求した。しかし、父ダートゥセーナはそれに答えようとせず、息子を自分が建設した貯水池カラー・ウエワに連れて行き、池を指差し、『これが私の財産のすべてだ』と言った。怒りに震えたカーシャバは父に恨みを持つ家臣に命じ、父親を殺させてしまう。弟モッガラーナの復讐をおそれたためか、父を殺してしまった後悔と苦しみのためなのか、カーシャバは神がかりになったように、シーギリヤの切り立った岩山に宮殿を建造し始めた。7年後、彼は自分の玉座をその頂上に置いたのである。そして11年後、異母弟のモッガラーナがインドから軍を引き連れ、兄に戦いを挑みに来た。兄弟の戦いがたけなわの時、カーシャバが乗っていた象は、行く手に突如現れた沼地に足を取られ沈んでしまった。カーシャバの軍は統制を乱し退却してしまう。ひとり取り残されたカーシャバは、短刀でのどをかき切り自らの命を絶ったのであった。その後モッガラーナは、シーギリヤの王宮を仏教僧に寄進し、ただちに首都をアヌラーダプラに戻したのだった。埋没していたシーギリヤ・ロックの宮殿が発見されたのは、カーシャバが死んで約1400年の後、イギリス植民地時代に入った19世紀も後半のことである。」(『地球の歩き方 スリランカ』より)
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●独立への道●
 100年にもおよぶイギリス植民地支配のなかで、スリランカ民族運動の中心となったのは、仏教の僧侶や知識人であった。1912年には、民族主義者による鉄道のストライキがおこなわれ、ついに、1919年に自治権の獲得を目的とするセイロン国民会議が開設された。第二次世界大戦が始まると、イギリスは日本との対抗上、戦後のスリランカの自治を条件に、イギリスへの協力を求めてきた。その結果、1946年には、スリランカ人によって制定された憲法がイギリス人によって承認され、翌年、イギリス連邦の一国としての地位が与えられた。これによって、スリランカは一応の独立を達成したのである。独立後、選挙民の大多数はD・S・セーナーナーヤカの率いる統一国民党を支持した。そして、ついに1948年2月4日、スリランカは完全な独立国家になりセーナーナーヤカが初代首相に選ばれたのである。
 参考文献(ロジャース・メアリ・M,吉野美那子訳『スリランカ』国土社、1994年、野口忠司監修、日本スリランカ友の会編『スリランカ』三修社、1995年)
(「輝く島スリランカ」の文章は、『シリーズ知っておきたい インド・南アジア』(歴史教育者協議会編集 青木書店 1997年)に私が書かせてもらったもので、写真は2005年に夫婦でスリランカ旅行をしたときの写真です。)
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コロンボのバンダーラナーヤカ記念国際会議場
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●ヨーロッパ人の侵入●
 ヨーロッパ人の侵入以前に、「海のシルクロード」を支配していたのはアラブ人であった。かれらはこの島をセレンディブ(心の平和)の島とよび、それがポルトガル人に受け継がれてセイラーンとなり、イギリス人にはセイロンとよばれた。
 16世紀初め、シナモン貿易の独占をねらってポルトガル人が来島し、海岸地帯に根拠地を築きはじめた。当時この島には、北部にタミル人のジャフナ王国と南部にシンハラ人のコーッテ王国、シータワカ王国、キャンディ王国が存在した。ポルトガル人は、諸王国をつぎつぎと攻略し海岸地帯を占領した。しかし、シナモンが栽培されている内陸部のキャンディ王国は、厳しい抵抗にあい支配できなかった。
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キャンディの丘陵地帯
 17世紀にやってきたオランダはキャンディ王国と同盟を結び、ポルトガルをスリランカから追放した。しかし、オランダもシナモンの栽培地を獲得しようとしてキャンディ王国の征服にのりだすが失敗する。そこでオランダはシナモンの木を低地で育てはじめた。やがてコーヒー、ココナッツ、綿、タバコなどの栽培もおこなわれるようになる。
 イギリスがこの島からオランダを追放し、全島の支配権を獲得したのは1818年である。キャンディ王国が簡単に屈したのは、王国内部の対立による。イギリスは大農園において、紅茶やゴムなどの栽培にのりだした。大農園制度は多くの労働力を必要としたため、イギリスはインド南部のタミル人に移民を奨励した。
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キャンディの仏歯寺
スリランカを代表する仏教寺院、寺院内に奉納されている仏歯は、紀元前543年にインドで仏陀を火葬した際、その中からやっと手に入れたものといわれている。その後4世紀にインドのオリッサ州カリンガの王子が、頭髪の中に隠してセイロンに持ち込み、アヌラーダプラに奉納した。その後、都が移るたびに一緒に運ばれ、最後にはキャンディに落ち着いた。(『地球の歩き 方スリランカ』より)
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 この島にはインド各地から移住者がやってきたが、とりわけ南インドのドラヴィダ系タミル人の侵入が顕著である。紀元前200年頃から侵入がはじまり、かれらはこの島の北部に定住しはじめた。それ以後も侵入は続けられたが、とくに有名なのが、10世紀末のチョーラ王国の侵入である。シンハラ王国は都アヌラーダプラを放棄し、ポロンナルワに移した。ポロンナルワ時代には、一時、チョーラ王国を撃退してシンハラ王国の権力が強まった。12世紀には、シンハラ王国のパラークラマバーフ1世は、南インドやミャンマーに遠征し、南アジアにおける一大勢力となった。しかし、まもなく王国は衰え、13世紀にはマレー人の侵略にあい、その後、シンハラ王国はいくつかの小王国に分裂した。14世紀には、北部のジャフナ半島に、タミル人が王国を建国した。さらに15世紀になると明の鄭和の遠征がおこなわれ、それ以後シンハラ王国は明に貢物を贈った。
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ポロンナルワの遺跡群のなかの「サトゥマハル・プラサーダ」
「上の階になるにつれ、だんだん小さくなっている7階建ての塔。この建築物はタイのワット・クークットという寺院と類似しており、タイから来た建築師が建てたものだと言われている。ポロンナルワが全盛期を迎えた12世紀頃には、この地は上座部仏教の重要な聖地とされ、タイやビルマからも僧が訪れたという。」(『地球の歩き方 スリランカ』より)
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ポロンナルワの遺跡群のなかの「ガルヴィハーラ」ここには涅槃像、立像、座像の3石造が並んでいる。「蓮の台座の上で腕を交差してたたずんでいる立像は、人生の辛さを哀れむ、悟りを開いた仏陀の姿とされている。目元や胸の上で腕を組む姿から、仏陀の深い情けが伝わってくるようだ。また、この立像には、仏陀が涅槃に入ってしまったことで悲しみに暮れている、一番弟子のアーナンダの姿だという説もある。高さ7m。瞑想をしている座仏像は、りんとして精神集中しているように見える。高さ4.6m。」(『地球の歩き方 スリランカ』より)
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●仏教王国の発展●
 6世紀に仏教の僧侶によって書かれた『マハーヴァンサ』(大王統史)によれば、紀元前500年頃に、アーリア系のシンハラ人が北インドからこの島に渡来した。シンハラとは「ライオンを殺した者」という意味で、建国神話に由来する。
 「昔、インドで雄のライオンがベンガルの王女をさらい、双子の兄妹が生まれた。成長した息子が父であるライオンを殺し、妹と結婚して王国を建国するが、その一族はシンハラとよばれるようになった。その長子ウィジャヤは徒党を組んで国中を荒らし回ったので、ついに船で追放されてしまう。スリランカに漂着した一行は、中央高地の北方地域を支配してシンハラ王国を建国するのである。」
 紀元前300年頃、「シンハラ王国のティッサラ時代に、インドのアショーカ王の子マヒンダとその妹サンガミッターがこの島に渡来し、仏教を伝えた」という伝説がある。当時、この島では小国が分立していたが、仏教をとりいれた1つの国が強大化したとみられる。都が置かれたアヌーラダプラには仏教寺院や王宮などの遺跡がみられる。
 この島は「海のシルクロード」の要所として、地理的に有利な位置を占めており、早くから交易が盛んにおこなわれていた。1世紀には、シンハラ王国からローマに交易使節が派遣されたことを、古代ローマの学者プリニウスが記録している。また、都アヌーラダプラは仏教の一大センターとして知られ、5世紀初めには中国の高僧法顕が仏典を求めて渡来している。こうした仏教王国の繁栄を支えたのは、大規模な貯水池灌漑による豊かな米の生産であった。

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アヌラーダプラの涅槃仏(ねはんぶつ)(イスルムニヤ精舎)
 「ティッサ・ウェワのほとりに造られた通称『ロック・テンプ』がイスルムニヤ精舎だ。岩肌を彫るようにして造った御堂と、岩の上に造られたダーガバ(仏塔)、極彩色に塗られた仏像を据えた本堂、貴重な発掘物を保管する宝物間。アヌラーダプラのほかのどんな遺跡ともまったく趣を異にした寺院だ。紀元前3世紀に建てられた僧院の一部が残され、衆愚区と寺院となったもので、本堂は比較的新しいものだ。本堂に据えられている仏像は、東京の浅草寺の援助で、色の塗り替えをおこなったのだという。」(『地球の歩き方 スリランカ』より)
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アヌーダプラのシンボル「ルワンヴェリ・サーヤ大塔
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●石器時代●
 スリランカに人びとがいつごろから住むようになったのか、まだはっきりとはわからない。最近の考古学研究によれば、東南海岸のヤラに石器時代の巨大な住居跡があり、また西北のマンタイとよばれる古代の港から、大昔の埋葬された骨壷が発見されている。さらに、ストーンヘンジを思わせる巨大な花崗岩で造られた首長の墓が、パタヴィガンボラとよばれる小高い丘の真ん中に立っている。
 石器時代の人たちは、インドから、象やシカや鳥などの動物を求めてこの島にやってきたのではないかと考えられている。それから数世紀のち、現代ではこの島の先住民族とよばれている、狩猟民のヴェッダ人がやってきた。かれらはこの島の豊かな森に入って生活し、独自の宗教や文化を育ててきた。しかし、かれらのあとにやってきた農耕民族のシンハラ人と同化することなく、現在も狩猟生活を守りつづけている。 
 
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象の水浴び
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●スリランカの自然●
 インドの涙ともよばれるスリランカは、現地のシンハラ語で「光り輝く島」という意味である。インドの東南海上に浮かぶこの小さな島の面積は、およそ6万5600平方キロメートルで、北海道より少し小さい。
 スリランカの地形は、島の周辺の海岸低地と、それにつながる北部、南部、東部の内陸平原、および南西と中央の高地からなる。比較的雨の少ない海岸低地と内陸は乾燥地帯、降水量の多い高地は湿潤地帯とよばれる。スリランカは赤道に近いため気候は熱帯性である。沿岸の都市コロンボの平均気温は1月が13.9度、5月が27.8度だが、山岳地帯では、これよりはるかに涼しい。
 スリランカは野生動物の楽園である。象、チーター、豹、熊、猪、水牛、鹿などの動物が法律によって保護されており、観光客を楽しませてくれる。
 スリランカの鉱物資源のなかで、最も有名なのは宝石である。古代ヘブライ王国のソロモン王が、シバの女王に贈り物としたのがこの島の宝石である。宝石にはルビー、サファイア、ムーンストーン、ガーネット、トバーズなどがある。
 スリランカの輸出品として、宝石とならんで有名なのがスパイスである。とくにシナモン(肉桂)は昔からムスリム(イスラーム教徒)やヨーロッパ人が求めた商品であり、かれらに莫大な利益をもたらした。セイロン紅茶として日本でもなじみのある紅茶は、もともとスリランカにはなく、イギリスの植民地支配のもとで栽培されたものである。

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 お茶を摘む女性(働いている女性はタミル人です。)
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