カテゴリ:日本史講座( 275 )

2 多党化とロッキード事件
1)新政党の出現
 高度経済成長による急速な都市化とともに、「支持政党なし」層が増え、1960年に民主社会党(のちに民主党に改称)、1964年に創価学会を基盤とする公明党が結成された。こうした多党化傾向は、石油ショック以降も進み、日本の政治も大きく変化した。
2)三木政権の成立
 1974年の参議院選挙では「金権選挙」の批判をあびるなかで自民党が敗北し、田中首相は辞意を表明した。後継争いは党内多数派で田中の後継者である大平正芳、はやくから田中を批判してきた三木武夫、福田赳夫に中曾根康弘が加わって展開された。そして少数派閥であったが、「クリーン政治」をかかげる三木内閣が成立した。
3)ロッキード事件
 1976年にアメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会において、ロッキード社が、日本に航空機や軍用機を売り込むために巨額の政治工作資金を使っているとの証言があった。右翼の黒幕である児玉誉士夫、小佐野賢治の関与と、その資金が丸紅幹部の示唆で日本政府高官に渡ったことが明らかとなり、ついに田中前首相が逮捕された。これをきっかけに、新自由クラブが、1977年には社会市民連合(のちに社会民主連合に改称)が結成され、多党化傾向にいっそう拍車がかかった。
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(三省堂「日本史B」より)
4)自民党内の政権交代
 こうしたなかで行われた1976年の総選挙で、政権政党の自民党はかろうじて過半数を維持した。三木首相は総選挙敗北の責任をとって辞任し、福田赳夫内閣が成立し、1978年に日中平和友好条約を正式に調印した。次の第1次大平正芳内閣のもとで行われた1979年の総選挙でも自民党公認候補の当選数は過半数に達せず、「保革伯仲状況」がつづいた。しかし1980年、第2次大平内閣のもとで行われた衆参両院同時選挙では、選挙期間中大平首相が亡くなるなか、自民党は大勝して過半数割れの状況を脱し、鈴木善幸内閣が成立した。
3 生活保守主義と行政改革
1)生活保守主義の広がり
 1970年代末から、社会はしだいに保守化傾向を強めていった。企業の減量経営が継続され、所得の上昇がにぶり雇用不安が増大したために、人々は、これまでの生活水準を維持することに関心を集中させるようになった。
2)中曽根内閣の行政改革
 政府は、大量の赤字国債発行によって大幅な赤字となった財政の再建をめざす行政改革を本格的に開始した。1981年に第2次臨時行政調査会(臨調)が発足し、1982年に鈴木内閣にかわって成立した中曾根康弘内閣は、行政改革の実施をかかげ、1985年に電電公社はNTTに、専売公社はJTに移行し、1987年には国鉄は分割・民営化を行いJR6社に移行した。しかしこの間、防衛費だけは例外とされ、1987年度予算では、「対GNP1%」の制限をついに突破した。
 こうした動きは、アメリカのレーガン政権やイギリスのサッチャー政権がとった「新保守主義」とよばれる政策とも歩調をあわせたものであった。

 2014年7月26日の第1回の講座から約4年かけて学習してきましたが、いよいよ次回の第77回日本史講座で最終回となります。次回は連休のために4月は休み、5月12日(土)午後2時より行う予定です。
 
 
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 第25章 経済大国化への道
 Ⅰ 石油ショックから行政改革へ
1 石油ショック
1)二つのニクソン・ショック
 1970年代に入って、世界は激動に見舞われた。国際政治・経済両面でアメリカの圧倒的な優位が崩れたからである。その背景には、アメリカのヴェトナム戦争への介入によって経済的に疲弊し、国際信用も低下していったからである。
 第一のショックは、1971年、アメリカのニクソン大統領が中国訪問計画を発表したことである。それはアメリカがこれまでの中国封じ込め、中国孤立化政策を改めることを意味した。ヴェトナム和平で行き詰っていた局面を打開する狙いも込めたアメリカの政策の展開は、中国を国際政治の表舞台に復帰させ、世界を米ソ中の三極構造に変えていった。その結果、中国は国際連合に復帰して国連の常任理事国の代表権を獲得し、台湾政府は追放された。
 第二のショックは、訪中発表から1か月後の1971年8月に発表された、金とドルとの交換停止である。日本は、1ドル360円に固定されて各国通貨と交換されてきた有利さを生かしながら高度経済成長をとげてきたが、ニクソン・ショックによって大きな変更をせまられ、1971年末に1ドル308円に切り上げた。世界経済もまた大きく動揺し、ヴェトナム戦争の戦費などによるアメリカ経済の悪化やドルの下落がはっきりすると、1973年、国際通貨基金(IMF)を中心とする固定為替相場制は崩壊し、主要先進国は変動為替相場制に移行し、円は1ドル260円に急騰した。
2)日中国交正常化
 1972年、沖縄の日本復帰が実現すると佐藤内閣は退陣し、7月の自民党総裁選で田中角栄が後継総裁に選ばれた。総裁選挙にはおびただしい金が多数派工作のためにばらまかれた。田中角栄は54歳と若くそれまでのような官僚出身者ではなく、立志伝中の人物として「決断と実行」をスローガンとしてブームを引き起こした。
 田中内閣の成立からわずか2か月後の1972年9月に中国の周恩来首相と会談し、日中共同声明が発表され、日中国交正常化が実現された。
3)列島改造計画
 田中角栄は首相就任前に発表した「日本列島改造論」に基づく大規模な内需拡大政策を実行に移して再度の円切り上げを防ごうとした。しかし、地価を中心に物価の高騰が続いた。
4)石油ショック
 1973年、第4次中東戦争が勃発すると、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)はアラブ諸国の敵であるイスラエル支持国への石油の輸出を制限した。その結果、1974年には原油価格が約4倍に上昇したがこれを石油ショックと呼ぶ。日本国内では激しいインフレーションが発生し、さらに円高と輸出不振で経済混乱がおきた。スーパーなどではトイレットペーパー・洗剤などに買い物客が殺到して、けが人が出るほどの、激しいパニック状態となった。一方、深夜放送やネオンの自粛など省エネ政策が進んだ。1974年の経済成長率は戦後初のマイナスを記録した。
 さらに1979年にイランで革命が起きると、1979年から再び石油価格が上昇し、第2次石油ショックが引き起こされた。
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(東京書籍「図説日本史」より) 

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 Ⅲ 高度経済成長の光と影
1 公害問題と革新自治体
1)公害問題
 経済成長優先の政策は、さまざまな問題を引き起こした。深刻化する環境破壊は、1950年代後半にはすでに熊本県水俣地方の「奇病」の発生や大気汚染、水質汚染、地盤沈下などの問題として認識されていた。しかし、それらが企業活動に伴って発生している人為的な加害に基づくものであるとの認識は薄かった。水俣病が工場排水に起因する有機水銀中毒であることは、熊本大学医学部などの研究によってかなり早い時期に確かめられていた。しかも、1959年11月には食品衛生調査会が厚生大臣に「水俣病の原因は水俣湾にすむ魚介類の体内から検出される優位水銀化合物である」と答申していたにもかかわらず、そうした科学的な検証に対して、政府は冷淡であった。政府が有機水銀説を認め、水俣病を公害病と認定するのは1967年のことであり、この遅れが、阿賀野川の第二水俣病の発生など被害の拡散と拡大をもたらした。
 このような問題の最も大きな要因は、つねに産業発展を優先すべきとの意見を持つ財界と通産省の強い要請のもとに人権が軽視されてきたことにある。私は歴史教育者協議会(歴教協)の全国大会に参加して、熊本水俣病・新潟水俣病・イタイイタイ病などの各地の実態と原告団の人々との交流などを通していかに企業や政府の責任が重いかを痛感したことを思い出した。
 1967年の四日市ぜんそく訴訟をはじめ、富山イタイイタイ病、新潟水俣病、熊本水俣病など全国で公害を訴える裁判があいつぎ、1971年から1973年に四大公害訴訟は患者側勝訴となったが、公害患者の認定基準はきびしく、人体に対する深刻な影響がさまざまな形でのこった。また、急速な都市化に伴う騒音などの都市公害や環境整備の遅れから各地で住民運動がおき、1967年には公害対策基本法が制定された。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)革新自治体の誕生
 こうした運動を背景にして、1967年に社会党・共産党や市民グループの支援で東京都知事に美濃部亮吉が当選して以降、革新首長による革新自治体が誕生していった。革新自治体では、都市環境問題対策や老人医療無料化などの福祉政策が推進され、国の政策にも反映され、1970年に公害を犯罪として処罰する公害対策基本法の改正が行われ、1971年には環境庁が設立された。

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 第76回日本史講座は4月14日(土)、受講者のお家で豪華な食事をご馳走になった後、午後2時より受講者で6名で行われました。
 Ⅱ 企業中心社会の形成
1 大企業集団の形成
 高度経済成長は、国内経済のしくみにも大きな変化をもたらし、国際競争の激化にそなえるため、欧米とは異なる日本独特の企業集団と企業内部の労使関係が形成されていった。
 六大都市銀行(三井・三菱・住友・富士・第一・三和)は、過度経済力集中排除法の指定範囲からはずされたため、系列企業への融資などを通じて再び大企業集団を形成していった。大企業集団は、資本の自由化による外国企業の乗っ取りにそなえ、大型合併や系列企業どうしで株式を持ちあい、結びつきを強め、下請けの中小企業はそのもとに系列化されていった。
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(岩波新書 シリーズ日本近現代史⑧ 高度成長 より)
2 日本的経営の形成
 日本的経営の特色は、第一に、労働組合が企業別組合であり、従業員は終身雇用と年功賃金という制度のもとで、大企業では比較的安定した地位を得ていたことであった。従業員は品質管理運動などによって生産性向上に協力し、企業経営への参加意識が高かった。そのために生産現場のコスト意識が高く、企業別組合であるために、技術革新に伴う配置転換の必要性などにも柔軟に対応できるなどの特徴もあった。第二に、下請関係なども含めて緊密な企業間関係が比較的長期に維持される傾向にあった。組立加工型工業において、組立メーカーと主要部品メーカーの関係は、60年代になると両社間の技術交流によって部品メーカーの生産性向上を図り、一体となって最終製品のコスト削減を試みる面も生まれた。第三に、大企業には、メインバンクといわれる主取引金融機関があり、運転資金調達に関しては、メインバンクを中核とする協調融資が重要な役割を果たした。(岩波新書 シリーズ日本近現代史⑧ 高度成長 武田晴人著より)
 このような日本企業の特徴は、日本経済システムの後進性をあらわすものであるとされていたが、やがてこのような特徴が日本企業の強さの源泉だといわれるようになっていった。

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4 日韓基本条約・ヴェトナム戦争と日本
1)日韓基本条約
 1960年代に入ると、日本は賠償事業を通して経済進出をはかった東南アジア諸国へ、新たに経済援助や借款の供与を行って輸出を拡大していった。1961年、池田首相はインドなどの4か国を訪問し、1962年に政府間で経済援助と借款の供与を取り決め、その額を急増させていった。
 韓国との間では、1951年以来、国交正常化のための日韓交渉が続けられてきたが、交渉は難航していた。それは日本の謝罪・賠償問題さらに李承晩ライン(リーライン)とよばれる問題があった。リーラインとは韓国初代大統領・李承晩が周辺諸国との間に設定した海洋境界線のことである。アメリカは韓国政府にリーラインを認めることはできないと勧告したが、韓国政府はこれを無視し、日韓条約が締結されるまで、日本の漁船はのべ328隻、漁師3929人が拘束された。さらに領土帰属問題(日本名は竹島、韓国名は独島)、さらに在日韓国人の法的地位問題で交渉は長期化した。
 アメリカの東アジア政策での要請もあり、また1961年に軍人の朴正煕(ぼくせいき)がクーデターによって政権をにぎり、工業化を行って経済成長を進める方針を打ち出すと、交渉は一挙に進んだ。日韓両国では激しい反対運動が広がるなか、1965年に調印し国交が結ばれた。日本では、すでにヴェトナム派兵を決めていた韓国政府との国交正常化は、日・韓・米の軍事的関係を強化すること、南北分断をを恒久化することなどから反対運動が展開された。一方、韓国では、謝罪・賠償はなく、国家間の賠償・補償問題は解決済みとされたことにより強い反発があった。この条約による協定で、韓国が対日賠償請求権を放棄する代わりに、日本が総額8億ドル以上の資金を提供することが決められ、東南アジアと同じように日本企業の韓国進出が進むことになった。
2)ヴェトナム戦争と日本
 1965年、アメリカは南北間で対立が続いていたヴェトナムに本格介入した。さらにタイなどの東南アジア諸国や韓国などは軍隊を派遣し、周辺諸国はアメリカ軍の拠点になるなど周辺諸国を巻き込む戦争となり、これらのアジア諸国を経済的に支えることが日本に求められるようになった。
 佐藤内閣は、アメリカのヴェトナム介入を支持し、積極的な支援をはかった。また、1965年におこった不況で終わるかに見えた高度経済成長は、一挙に輸出を拡大し、いち早く立ち直った。
 しかし、ヴェトナム戦争と在日米軍基地とが深いかかわりをもったために政治問題化し、政党や労働組合の枠を超えたヴェトナム反戦運動が全国に広がった。なかでも沖縄では、B52戦略爆撃機が北ヴェトナム爆撃に向かったり、海兵隊も出撃していったため、出撃基地として基地問題が深刻化した。このため、基地を撤去し日本復帰を求める祖国復帰運動が広がっていった。そして政府間交渉の結果、1971年、沖縄返還協定が締結され、1972年に沖縄の日本復帰を実現した。しかし、日本政府は1967年に核兵器を「つくらず・もたず・もちこませず」という非核三原則を宣言していたが、返還にあたって、沖縄の嘉手納基地への核持ちこみが明らかとなり問題とされた。また、返還後も米軍基地は残されたままであり、米兵による少女暴行事件や米軍機の墜落事故など沖縄住民の犠牲は今も深刻である。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 第76回日本史講座は、4月14日(土)午後2時より行う予定です。

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3 農業基本法と開放経済体制への移行
1)農業基本法
 池田内閣の所得倍増政策は、農村にもおよんでいった。政府は、食糧管理制度のもと、補助金を投入して生産者米価を毎年引き上げていったため、消費者米価を上回るほどになった。その結果、米の供給過剰と食糧管理特別会計の赤字が深刻になり、1970年度から減反政策がはじまった。
 また、1961年には農業の近代化をすすめるための農業基本法が制定され、農業の近代化と農業生産性の向上、所得の増加をめざした。この結果、農家の所得水準は上昇し、地域間の格差は小さくなっていったが、兼業農家が増え、「三ちゃん(母ちゃん・じいちゃん・ばあちゃん)農業」が増加していった。
2)開放経済体制への移行
 高度経済成長政策は、貿易と資本を自由化して開放経済体制に移行し、先進国として世界経済に加わることをめざした政策でもあったが、それを可能にしたのは、1ドル360円という円安による貿易黒字がその背景にあった。
 日本は1963年にGATT(関税及び貿易に関する一般協定)11条国へ移行したが、それは国際収支を理由に輸出入の数量制限を行うことを禁止しており、貿易の自由化をめざしたものである。さらに1964年にはIMF(国際通貨基金)8条国へ移行したが、それは国際収支の赤字を理由に為替制限ができないことで、為替の自由化をめざしたものである。同年、日本はOECD(経済協力開発機構)に加盟し、資本の自由化をめざした。そして同年、日本はアジア初のオリンピック東京大会を開催するとともに、オリンピックにあわせて東海道新幹線を開通するなど、日本の先進国の仲間入りを印象付けた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 

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 第75回日本史講座は、3月24日(土)午後2時より受講者7名で行われました。

2 経済成長優先の政治
1)池田内閣の高度経済政策
 憲法改正や自衛力強化を前面に出した岸内閣は、1960年に安保条約を改定して退陣した。かわって首相となった池田勇人(はやと)は、以前、吉田内閣の大蔵大臣の時に「中小企業の一部倒産もやむおえない」や「貧乏人は麦を食え」といった発言をしたとして、新聞社などから反庶民的・高圧的な姿勢を批判されたことがあった。そのため、「低姿勢」「寛容と忍耐」をかかげ、経済優先の政策を推し進めた。
 1960年、第2次池田内閣は国民所得倍増計画を閣議決定し、1961年国民皆(かい)保険・皆年金が実現された。1962年には新産業都市建設促進法が施行され、1963年には13の新産業都市と6か所の工業整備特別地域が指定され、全国的な重化学工業化がはかられた。1956年から1960年の第2次鉄鋼合理化計画によって、臨海地域に新鋭の銑鋼(せんこう)一貫製鉄所の建設がすすめられた。また、石炭から石油へのエネルギー転換にともなって、太平洋ベルト地帯に巨大な石油化学コンビナートが建設されていった。
2)企業の技術革新
 企業は、急速な技術革新を実現しながら生産性をあげていった。そして、そのために行われる設備投資がさらに設備投資をよぶというようにして、急速な高度経済成長が実現されていった。技術革新は大企業だけではなく、中小企業でも行われ、家庭用電化製品の普及に貢献した松下幸之助の松下電気工業や、オートバイの国産化をめざした本田宗一郎の本田技研工業、世界に先がけてトランジスターラジオを製品化した井深大(いぶかまさる)・盛田昭夫の東京通信工業(のちのソニー)などは急成長をとげて世界的な大企業となった。
3)高度経済成長の時代
 1955年から約10年間、経済成長率が平均10%を上回ったことをうけて高度経済成長の時代とよぶ。1955年からの神武景気が高度経済成長の幕開けとなり、続いて岩戸景気、さらにオリンピック景気そして1965年から70年の長期にわたるいざなぎ景気と続いた。それが可能となった背景には、1ドルが360円と円安の固定相場制であったこと。今と比べて若い労働人口が豊富にあったこと。日本が戦争に巻き込まれることもなく、ヴェトナム戦争などの特需があったこと。エネルギー政策の転換が進められたこと。戦後ゼロからの出発で、新しい技術を積極的に導入することができたことなどがあげられる。
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(東京書籍「図説日本史」より) 

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 第24章 高度経済成長と国際社会
 Ⅰ 高度経済成長
1 日米安保条約の改定
1)条約の改定
 1960年代に入ると、日本の政治と経済の仕組みは、日米関係を中心とする国際関係の転換とともに大きく変化した。転換点となったのは、1960年1月19日に岸首相がワシントンで調印した日米安全保障条約(新安保条約)であった。
 新条約では、日本の自立性を認める条項が入る一方で、日本の防衛が日米共同責任とされ、在日米軍が極東地域の戦略に組み込まれることが懸念された。1960年5月、警官隊500名が衆議院に待機するなか、50日間の会期延長と条約改定の批准が強行採決されると、安保改定阻止国民会議を中心に反対運動が急速に盛り上がっていった。
2)60年安保闘争
 強行採決が行われると連日のデモが国会を包囲し、東京の都心部をうずめた。そして1960年6月15日、参議院では、新安保条約の批准採決が行われようとしていた。国民会議は、第18次統一行動を行い、労働組合のストライキを含み、最大規模の動員によって、国会を包囲しようと決めており、そこで事件が起こった。この事件について大江氏によると、「きっかけをつくったのは、右翼だった。夕刻、児玉誉士夫配下の維新行動隊が、トラックで、国会裏の女性の多い新劇人会議と、子供づれの主婦のデモの隊列につっこみ、あらんかぎりの暴行をはたらいた。…すでに国会を二周した全学連主流派のデモの隊列は国会南通用門付近でこの惨事の報をきいた。…そこに、極左指導部の国会突入戦術が作用した。夕闇の国会構内に約700人の学生たちがはいると、警官隊は袋の口をとじ、狼のように学生におそいかかった。一人の女子学生が殺され、重傷者は数知れなかった。…岸内閣は、深夜の閣議をひらき、『国際共産主義の企図に踊らされつつある計画的行動にほかならない』という政府声明を発表した。この事件はだれの計画的行動であったのか。事件の発端は右翼による挑発と、この挑発を黙認した警察によってつくられた。挑発にのったのは、この挑発を好機として国会突入戦術を実行に移した全学連主流派の指導部であった。そして、のちになって、このときの全学連主流派の最高指導者の一人は、TBS放送で、このとき、かれらが反共右翼の大立者(おおだてもの)の一人田中清玄(せいげん)から金をもらい、警視庁首脳部ともしばしば会って談合していた事実を告白した。判明している事実はそこまでであるが、このことから、この事件は、かつての松川事件などとおなじように、国民の政府批判の目を、『国際共産主義の企図に踊らされつつある計画的行動』にそらせ、反対運動を分裂させ、孤立させるための謀略ではなかったかという疑惑さえでてくる。」(小学館「日本の歴史31」)と指摘している。
 激しい反対闘争によって、予定されていたアイゼンハワー米大統領の訪日は中止に追い込まれ、条約は参議院で承認できないまま、憲法61条により30日で自然承認され、その直後に第2次岸内閣は総辞職した。この安保闘争の歴史的意義はどこにあるのか、大江氏によると、「これ以後の歴代自民党内閣の首相が憲法改正を口にすることがタブーとなり、自衛隊の海外派兵や核武装も公然とは口にできなくなったのである。」と指摘している。
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(東京書籍「図説日本史」より) 
 第75回日本史講座は3月24日(土)午後2時より行う予定です。
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Ⅲ 経済の復興と発展
1 高度経済成長政策
 日本経済は急速に復興したが、1953年に朝鮮戦争が休戦すると、朝鮮特需で経済復興を果たした日本経済は不況におちいった。
 1955年、経済界は生産性本部をまた政府も経済企画庁を設けて、新たな経済成長に向けての取り組みを開始した。政府は、『経済白書』で、「もはや戦後ではない」と宣言し、重化学工業の育成と合理化を進めて、国際競争力を強化するという高度経済成長政策を打ち出した。これを受けて、大企業は、合理化と最新設備への投資を積極的に行っていった。こうした大企業には、東南アジア各国に道路建設・鉄道敷設・水力発電所建設などで支払うことになった政府の賠償事業が任せられたため、大企業は長期にわたる事業をとおして東南アジア進出ができるようになった。
 一方、合理化に反対して自動車・電機・石炭などの基幹産業では大規模な労働争議が起こったが、なかでも、石炭から石油へのエネルギー政策の転換によって、厳しい合理化を迫られた炭鉱の争議は激しく、1959年から1960年にかけて起こった福岡県の三井三池争議は全国から支援を受けて闘われた。この闘争は会社側が1214名の指名解雇を通告し、その中には、組合活動家たち約300人が含まれていた。これに対し労組は全山ストライキに入り、いわゆる「三池争議」が始まった。闘争は長びいていき、会社側のてこ入れによって第2組合がつくられ、暴力団や警察隊を投入してストライキを崩そうとした。三池の闘いはしだいに全国の労働者の中に広まり、安保闘争と強く結びついていった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2 テレビの誕生と大衆文化
1)テレビの誕生
 産業界が民間向け生産を重視し始めると、電気器具などの耐久消費財の大量生産が進み、テレビ・洗濯機・冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれて、家庭になくてはならないものとして普及した。
 テレビは1953年1月、シャープが国産第1号を17万5000円で発売したが、当時の大卒の初任給が5000円だから給料の35倍の値段であった。2月にNHKと民間テレビ局が放送を開始した。テレビをとおして、プロレスの力道山、プロ野球の長嶋茂雄、歌手の美空ひばりなどの大スターが誕生した。
2)戦後の文学
  文学の世界では、安岡正太郎・吉行淳之介・阿川弘之・遠藤周作らが戦後派文学の第三の新人と呼ばれた。また、三島由紀夫は、敗戦による挫折体験から出発し独特の文学をえがき続けた。一方、新聞や大衆雑誌には、純文学に社会性や通俗性と娯楽性を加えた、石坂洋次郎や大佛次郎(おさらぎじろう)・獅子文六・吉川英治らの中間小説と呼ばれる作品が掲載され、小説ブームをつくった。

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6 岸内閣
1)岸内閣の成立
 1956年、鳩山内閣は日ソ国交回復と日本の国連加盟が実現すると病気のため退陣し、石橋湛山(たんざん)内閣が成立した。しかし、組閣後わずか1か月で病気でたおれて辞職し、岸信介が後継首相となった。彼は旧満州国の植民地支配の実力者として君臨し、東条内閣の閣僚として宣戦の詔書に署名したA級戦犯であったが、日本は戦後わずか12年目に、彼を首相の座に就くことを許してしまったのである。
2)逆コースの時代へ
 戦後の日本は民主的な社会をめざしたが、岸内閣の政策は民主化とは逆の政策を実施していった。
 岸首相は1957年5月に東南アジア6か国を訪問した。太平洋戦争中、日本の侵略で迷惑をかけたことのお詫びと、親善を深めることがその表向きの理由であったが、日本経済の東南アジア進出の準備工作がその大きな目的であった。東南アジア各国の賠償要求額は著しく高かったが、アジアでの日本の役割を重視するアメリカの要求で軽減され、その多くは道路建設や水力発電所建設などで支払うことになった。
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(三省堂「日本史B」より)
 国内では、政府は平和運動や反基地闘争に対して強い姿勢で臨んだ。なかでも、地域と強く結びついて平和運動をおこなっていた日教組への規制を強めた。1956年に教育委員会を公選制から首長による任命制にかえ、同時に、教職員への勤務評定制度の導入を決定していたが、岸内閣は1958年から全国で実施しようとしたため、激しい反対運動が広がった。さらに、警察官の権限を拡大するために国会に提出していた警察官職務執行法(警職法)の改正案が、警職法反対国民会議などの広範な国民の反対運動にあって改正を断念した。
 こうした対立のなかで、岸内閣が同時に進めていた安保条約の改定に対して、アメリカが行う戦争に日本が巻き込まれるのではないかという恐れが国民の間に広がった。1959年には社会党・共産党や労働組合、学生、市民ら多くの国民が参加して安保改定阻止国民会議が結成され、安保反対運動が急速に盛り上がっていった。

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