カテゴリ:日本史講座( 279 )

 Ⅲ 世界の変動と日本の課題
1 世界経済の不安定と国際協調
1)経済の国際協調の加速化
 1980年代のアメリカの高金利政策とドル高によって、発展途上国の累積債務問題が深刻になり、1989年には債務の金利減免や債務額の削減を求める提案がG5で合意された。また、1986年から始まったウルグアイ・ラウンドで農業をめぐって、アメリカとヨーロッパや日本が対立するなど交渉が難航する中で、1989年の北米自由貿易協定(NAFTA)や、1992年のヨーロッパ統合(EU)や、ASEAN自由貿易地域(AFTA)などの地域的な経済統合の動きが強まっている。
2)先進国首脳会議(サミット)
 さらに金融の自由化とともに、資金の国際移動が大きくなり、各国による通貨への協調介入が不可欠となり、毎年開催される先進国首脳会議(サミット)などで各国の経済政策の相互調整が必要となっている。
2 冷戦体制の終焉
1)ソ連
 1985年にゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任すると、ソ連ではペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)が推し進められた。破綻した中央指令型の計画経済の立て直しのために市場経済の導入が図られ、政治面では民主化と軍縮が推進された。1987年の米ソ首脳会談でINF全廃(中距離核戦力廃棄に関する2国間)条約が締結され、1988年にはアフガニスタン和平協定が結ばれ、ソ連軍のアフガン撤兵が実現した。1989年には地中海のマルタ島で米ソ首脳会談が開かれ、冷戦の終結が確認された。1991年、保守派のクーデターの失敗によって、8月にソ連共産党は解体し、さらにバルト3国の独立をきっかけに、各共和国は次々に独立し、11の共和国からなる独立国家共同体(CIS)が発足した。
2)ドイツ
 1989年11月にベルリンの壁が取り払われ、翌1990年、東西ドイツの統一が実現し、ソ連によって改革が抑えられていた東欧諸国でも次々と自由化・民主化が進んだ。
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(東京書籍「図説日本史」より)
3 冷戦後の世界と日本
1)冷戦後の世界
 冷戦は終わったが、世界の政治はいぜん不安定な要因を抱えている。中国では経済の近代化が推進される一方、1989年には民主化を求める民衆を軍隊が弾圧するという天安門事件が起き、また、パレスチナ問題はいぜん未解決のままである。
 1990年にはイラクのフセイン大統領によるクウェート侵攻が起き、国連は経済制裁を課し、アメリカ軍を中心とする多国籍軍はイラクに激しい攻撃を加えるという湾岸戦争により、クウェートを解放した。そして、2001年にアメリカで同時多発テロが起きると、冷戦後、唯一の超大国となったアメリカのG.W.ブッシュ大統領は対テロ戦争を宣言し、アフガニスタンを攻撃した。さらに米英軍はイラクを攻撃してフセイン政権を倒した。しかし、イラク攻撃をめぐってドイツ・フランス・ロシアから批判が起きるなど、国際的な安全保障体制は確立されていない。
2)日本の国際的立場
 日本国内では、湾岸戦争の戦費負担をきっかけに、国際平和に対する日本の貢献のあり方をめぐる議論がおき、1992年、政府は国連平和維持活動(PKO)をめぐる法案を通過させ自衛隊をカンボジアに派遣した。また2001年にはインド洋に、2004年にはイラクにも自衛隊を派遣した。今後も平和憲法と経済大国化した日本の国際貢献のあり方について、検討しなければならない課題は多い。
 また、日本には外国人労働者が急激に増加する中、部落差別や在日韓国・朝鮮人に対する偏見や差別をなくすことがますます大切になってきている。女性への差別も、1985年に男女雇用機会均等法が制定されたものの、母性保護という観点からは問題を残している。さらに、フロンガスや二酸化炭素による地球温暖化や原子力発電問題など科学技術がもたらす問題もますます深刻化している。
 2014年7月26日から始まった日本史講座も今日で最終回となりましたが、この講座で日本史が少しは理解できたでしょうか。
次回の歴史講座は、5月26日(土)午後2時より、「生活文化の世界史①」を始めたいと思います。
 
 

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3 55年体制の崩壊
1)自民党内閣の交代
 バブル経済と資産格差が広がるなかで、リクルート事件などの汚職事件がたびたび起こったため、内閣が次々と交代した。
 1987年、中曽根内閣に代わって竹下登内閣が成立し、1989(平成元)年に消費税3%が導入された。しかし、1988年には牛肉とオレンジの輸入自由化が決定され、その後、米の輸入自由化が問題となった。しかし、1988年にリクルート社からの政治家・官僚に対する献金疑惑が発覚し、竹下内閣は総辞職した。
 1989年、竹下内閣に代わった宇野宗佑内閣のもとで行われた参議院選挙では、リクルート問題と消費税の導入、さらに宇野首相の女性問題で自民党は大敗し、その責任をとって宇野首相は退陣したが、この内閣はわずか69日間という史上5番目の短命内閣であった。
 1990年の第1次海部俊樹(かいふとしき)内閣の下で行われた衆議院選挙では自民党が勝利をおさめ、衆議院では与党が、参議院では野党が多数を占めるという事態が生じた。このため、第2次海部内閣は、政治資金の新たな規制や小選挙区制の導入などを柱とする政治改革を行おうとしたが、自民党内部の抵抗にあって辞任を余儀なくされ、1991年に宮澤喜一内閣が発足した。
2)55年体制の崩壊
 1992年にふたたび東京佐川事件という汚職事件が発覚し、日本新党が結党されるなど、既成政党への不信感は一層強まった。そして、1993年に宮澤内閣の内閣不信任案が可決されると、自民党は分裂し、さきがけと新生党が結成された。さらに自民党は総選挙で敗北したため、1955年の結党以来はじめて政権政党の座をおりた。
 代わって、8党派連立による細川護熙(もりひろ)内閣が成立し、政治改革法案を成立させたが、政治資金をめぐる疑惑で辞任を余儀なくされた。つづく羽田孜(はだつとむ)内閣も連立与党内の対立から総辞職し、自民党・社会党・さきがけによる村山富市内閣が、1996年に3党連立による第1次橋本龍太郎内閣が成立した。しかし、政策をめぐる対立から連立が解消され、支持政党をもたない無党派層が増えるなか、同年、自民党単独の第2次橋本内閣が成立した。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 さらに1998年、小渕恵三内閣は、参議院の議席数が野党優勢であったため、自由党・公明党と連立して政権の維持につとめた。そして、自由党が分裂したため、自由党・公明党・保守党の3党連立による第1次森喜朗(よしろう)内閣・第2次森内閣・第1次小泉純一郎内閣がつづいた。さらに保守党が自民党に合流すると、自民党・公明党による連立内閣がつづくなか、2005年、第2次小泉内閣は総選挙で圧勝し、新たに成立した第3次小泉内閣郵政民営化を実現させて、翌2006年に総辞職し、安倍晋三内閣が成立し、教育基本法の改正・防衛庁の省への昇格などを行った。しかし、2007年の参議院選挙で民主党が躍進して参議院の議席数が野党優勢となるなか、安倍首相は辞任し、代わって福田康夫内閣が成立したが、政治をめぐる動きはいぜん不安定である。

 

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2 バブル経済と平成不況
1)バブル経済
 日本経済は、1985年の急速な円高によって、大幅な貿易黒字が生まれたものの、国内では、設備投資が停滞したために、余剰資金が生じるようになるなど、一時的に円高不況に陥った。円高不況によって、地方経済が落ち込む中、東京は国際金融の拠点の一つとなり、政治や経済の情報が集中するにつれ、経済の東京一極集中化現象がますます進むことになった。一方、余剰資金を抱えた企業や銀行などの金融機関は、土地や株式を投機的に買ったり、資金の貸し付けを積極的に行うようになった。そのため、日本国内では、地価や株価・絵画・ゴルフ会員権が急激に上昇し、いわゆるバブル景気をむかえた。土地価格の上昇はすさまじく、当時の東京23区の価格でアメリカ全土が買えるほど日本の土地価格は高騰し、日経平均株価は1989年には、史上最高値38,957円を付けるなどし、資産価格のバブル化が起こっていた。また、対外金融資産にも投資され、日本企業の海外進出も進み、1988年末には日本の対外資産残高は世界第1位となった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2)平成不況
 こうした企業や金融機関の動きによって、資産や所得の格差が拡大していったため、政府や日本銀行が土地への融資の規制や金利の引き上げを行ったため、地価や株価が一転して、急激に下落した。その結果、投機に走った企業の一部は倒産し、金融機関の不良債権問題が表面化し、日本経済は長期にわたる不況に陥ったが、これを平成不況と呼ぶ。この間も、円高が進んだため、輸出が割高になった企業の中には、生産拠点をアジアを中心とした海外に移す動きが強まった。

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 いよいよ最終回となった第77回日本史講座は、5月12日(土)午後2時より受講者6名で行われました。
 Ⅱ 経済大国化のひずみ
1 貿易摩擦の深刻化
1)ドル高への各国の是正対策
 1980年代に入ると、アメリカ経済は軍事費の激増などによって、巨額の貿易赤字と財政赤字という「双子の赤字」をかかえるようになった。とりわけ貿易赤字の要因は日本のアメリカへの輸出拡大にあり、1980年代にアメリカの対日貿易赤字が500億ドルに達した。しかし、現代のアメリカの貿易赤字に比べると、1980年の赤字は微々たるものである。2016年の統計では、対中国の貿易赤字は3470億ドル(約38兆円)、対日赤字は689億ドル(約7.6兆円)である。
 「双子の赤字」により、世界の基軸通貨であるドルへの国際的な信頼も大きく揺らぐようになったため、1985年、米・英・西独・仏・日の先進国5か国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)が開かれ、実情を反映していないドル高を是正するために、為替市場への協調介入が決められた。この合意はニューヨークのプラザホテルで開かれたため、プラザ合意と呼ばれている。G5は、1987年にイタリア・カナダを加えたG7となり、急激なドル安を食い止めることが合意された。
 これをきっかけに急激な円高が進み、為替相場が1ドル=240円から1987年には123円まで上昇し、日本経済は一時的に円高不況に陥った。日本経済は、欧米諸国への輸出を急増させながら、景気の回復をはかった。この結果、欧米諸国との間に貿易摩擦が生まれるようになった。
2)貿易摩擦問題への日本の対応
 対米貿易黒字が急速に増えていったため、アメリカの批判は特に強硬になった。そのため、政府は自動車や鉄鋼・繊維などの輸出の自主規制を実施し、1986年には外国製半導体の日本市場への参入を保障する日米半導体協定に調印した。しかし、対米黒字は一向に解消されず、日米経済構造協議などを通して、アメリカは日本の市場制度や取引慣行から経済政策全般にまで批判のほこ先を向け、原則として1年以内に改善されないと、報復措置をとると宣言した。また、世界経済が不安定さを増していく中で、巨額の貿易黒字を抱える日本に対する国際的な資金協力の要求も高まっていった。
 1985年以降、日本の政府開発援助(ODA)費は急速に拡大し、1989年にはアメリカを抜いて世界第1位となった。そのため、貿易や資本投資などを通して、アジア諸国との経済的結びつきが一層強まることになった。
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(三省堂「日本史B」より)

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2 多党化とロッキード事件
1)新政党の出現
 高度経済成長による急速な都市化とともに、「支持政党なし」層が増え、1960年に民主社会党(のちに民主党に改称)、1964年に創価学会を基盤とする公明党が結成された。こうした多党化傾向は、石油ショック以降も進み、日本の政治も大きく変化した。
2)三木政権の成立
 1974年の参議院選挙では「金権選挙」の批判をあびるなかで自民党が敗北し、田中首相は辞意を表明した。後継争いは党内多数派で田中の後継者である大平正芳、はやくから田中を批判してきた三木武夫、福田赳夫に中曾根康弘が加わって展開された。そして少数派閥であったが、「クリーン政治」をかかげる三木内閣が成立した。
3)ロッキード事件
 1976年にアメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会において、ロッキード社が、日本に航空機や軍用機を売り込むために巨額の政治工作資金を使っているとの証言があった。右翼の黒幕である児玉誉士夫、小佐野賢治の関与と、その資金が丸紅幹部の示唆で日本政府高官に渡ったことが明らかとなり、ついに田中前首相が逮捕された。これをきっかけに、新自由クラブが、1977年には社会市民連合(のちに社会民主連合に改称)が結成され、多党化傾向にいっそう拍車がかかった。
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(三省堂「日本史B」より)
4)自民党内の政権交代
 こうしたなかで行われた1976年の総選挙で、政権政党の自民党はかろうじて過半数を維持した。三木首相は総選挙敗北の責任をとって辞任し、福田赳夫内閣が成立し、1978年に日中平和友好条約を正式に調印した。次の第1次大平正芳内閣のもとで行われた1979年の総選挙でも自民党公認候補の当選数は過半数に達せず、「保革伯仲状況」がつづいた。しかし1980年、第2次大平内閣のもとで行われた衆参両院同時選挙では、選挙期間中大平首相が亡くなるなか、自民党は大勝して過半数割れの状況を脱し、鈴木善幸内閣が成立した。
3 生活保守主義と行政改革
1)生活保守主義の広がり
 1970年代末から、社会はしだいに保守化傾向を強めていった。企業の減量経営が継続され、所得の上昇がにぶり雇用不安が増大したために、人々は、これまでの生活水準を維持することに関心を集中させるようになった。
2)中曽根内閣の行政改革
 政府は、大量の赤字国債発行によって大幅な赤字となった財政の再建をめざす行政改革を本格的に開始した。1981年に第2次臨時行政調査会(臨調)が発足し、1982年に鈴木内閣にかわって成立した中曾根康弘内閣は、行政改革の実施をかかげ、1985年に電電公社はNTTに、専売公社はJTに移行し、1987年には国鉄は分割・民営化を行いJR6社に移行した。しかしこの間、防衛費だけは例外とされ、1987年度予算では、「対GNP1%」の制限をついに突破した。
 こうした動きは、アメリカのレーガン政権やイギリスのサッチャー政権がとった「新保守主義」とよばれる政策とも歩調をあわせたものであった。

 2014年7月26日の第1回の講座から約4年かけて学習してきましたが、いよいよ次回の第77回日本史講座で最終回となります。次回は連休のために4月は休み、5月12日(土)午後2時より行う予定です。
 
 
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 第25章 経済大国化への道
 Ⅰ 石油ショックから行政改革へ
1 石油ショック
1)二つのニクソン・ショック
 1970年代に入って、世界は激動に見舞われた。国際政治・経済両面でアメリカの圧倒的な優位が崩れたからである。その背景には、アメリカのヴェトナム戦争への介入によって経済的に疲弊し、国際信用も低下していったからである。
 第一のショックは、1971年、アメリカのニクソン大統領が中国訪問計画を発表したことである。それはアメリカがこれまでの中国封じ込め、中国孤立化政策を改めることを意味した。ヴェトナム和平で行き詰っていた局面を打開する狙いも込めたアメリカの政策の展開は、中国を国際政治の表舞台に復帰させ、世界を米ソ中の三極構造に変えていった。その結果、中国は国際連合に復帰して国連の常任理事国の代表権を獲得し、台湾政府は追放された。
 第二のショックは、訪中発表から1か月後の1971年8月に発表された、金とドルとの交換停止である。日本は、1ドル360円に固定されて各国通貨と交換されてきた有利さを生かしながら高度経済成長をとげてきたが、ニクソン・ショックによって大きな変更をせまられ、1971年末に1ドル308円に切り上げた。世界経済もまた大きく動揺し、ヴェトナム戦争の戦費などによるアメリカ経済の悪化やドルの下落がはっきりすると、1973年、国際通貨基金(IMF)を中心とする固定為替相場制は崩壊し、主要先進国は変動為替相場制に移行し、円は1ドル260円に急騰した。
2)日中国交正常化
 1972年、沖縄の日本復帰が実現すると佐藤内閣は退陣し、7月の自民党総裁選で田中角栄が後継総裁に選ばれた。総裁選挙にはおびただしい金が多数派工作のためにばらまかれた。田中角栄は54歳と若くそれまでのような官僚出身者ではなく、立志伝中の人物として「決断と実行」をスローガンとしてブームを引き起こした。
 田中内閣の成立からわずか2か月後の1972年9月に中国の周恩来首相と会談し、日中共同声明が発表され、日中国交正常化が実現された。
3)列島改造計画
 田中角栄は首相就任前に発表した「日本列島改造論」に基づく大規模な内需拡大政策を実行に移して再度の円切り上げを防ごうとした。しかし、地価を中心に物価の高騰が続いた。
4)石油ショック
 1973年、第4次中東戦争が勃発すると、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)はアラブ諸国の敵であるイスラエル支持国への石油の輸出を制限した。その結果、1974年には原油価格が約4倍に上昇したがこれを石油ショックと呼ぶ。日本国内では激しいインフレーションが発生し、さらに円高と輸出不振で経済混乱がおきた。スーパーなどではトイレットペーパー・洗剤などに買い物客が殺到して、けが人が出るほどの、激しいパニック状態となった。一方、深夜放送やネオンの自粛など省エネ政策が進んだ。1974年の経済成長率は戦後初のマイナスを記録した。
 さらに1979年にイランで革命が起きると、1979年から再び石油価格が上昇し、第2次石油ショックが引き起こされた。
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(東京書籍「図説日本史」より) 

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 Ⅲ 高度経済成長の光と影
1 公害問題と革新自治体
1)公害問題
 経済成長優先の政策は、さまざまな問題を引き起こした。深刻化する環境破壊は、1950年代後半にはすでに熊本県水俣地方の「奇病」の発生や大気汚染、水質汚染、地盤沈下などの問題として認識されていた。しかし、それらが企業活動に伴って発生している人為的な加害に基づくものであるとの認識は薄かった。水俣病が工場排水に起因する有機水銀中毒であることは、熊本大学医学部などの研究によってかなり早い時期に確かめられていた。しかも、1959年11月には食品衛生調査会が厚生大臣に「水俣病の原因は水俣湾にすむ魚介類の体内から検出される優位水銀化合物である」と答申していたにもかかわらず、そうした科学的な検証に対して、政府は冷淡であった。政府が有機水銀説を認め、水俣病を公害病と認定するのは1967年のことであり、この遅れが、阿賀野川の第二水俣病の発生など被害の拡散と拡大をもたらした。
 このような問題の最も大きな要因は、つねに産業発展を優先すべきとの意見を持つ財界と通産省の強い要請のもとに人権が軽視されてきたことにある。私は歴史教育者協議会(歴教協)の全国大会に参加して、熊本水俣病・新潟水俣病・イタイイタイ病などの各地の実態と原告団の人々との交流などを通していかに企業や政府の責任が重いかを痛感したことを思い出した。
 1967年の四日市ぜんそく訴訟をはじめ、富山イタイイタイ病、新潟水俣病、熊本水俣病など全国で公害を訴える裁判があいつぎ、1971年から1973年に四大公害訴訟は患者側勝訴となったが、公害患者の認定基準はきびしく、人体に対する深刻な影響がさまざまな形でのこった。また、急速な都市化に伴う騒音などの都市公害や環境整備の遅れから各地で住民運動がおき、1967年には公害対策基本法が制定された。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)革新自治体の誕生
 こうした運動を背景にして、1967年に社会党・共産党や市民グループの支援で東京都知事に美濃部亮吉が当選して以降、革新首長による革新自治体が誕生していった。革新自治体では、都市環境問題対策や老人医療無料化などの福祉政策が推進され、国の政策にも反映され、1970年に公害を犯罪として処罰する公害対策基本法の改正が行われ、1971年には環境庁が設立された。

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 第76回日本史講座は4月14日(土)、受講者のお家で豪華な食事をご馳走になった後、午後2時より受講者で6名で行われました。
 Ⅱ 企業中心社会の形成
1 大企業集団の形成
 高度経済成長は、国内経済のしくみにも大きな変化をもたらし、国際競争の激化にそなえるため、欧米とは異なる日本独特の企業集団と企業内部の労使関係が形成されていった。
 六大都市銀行(三井・三菱・住友・富士・第一・三和)は、過度経済力集中排除法の指定範囲からはずされたため、系列企業への融資などを通じて再び大企業集団を形成していった。大企業集団は、資本の自由化による外国企業の乗っ取りにそなえ、大型合併や系列企業どうしで株式を持ちあい、結びつきを強め、下請けの中小企業はそのもとに系列化されていった。
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(岩波新書 シリーズ日本近現代史⑧ 高度成長 より)
2 日本的経営の形成
 日本的経営の特色は、第一に、労働組合が企業別組合であり、従業員は終身雇用と年功賃金という制度のもとで、大企業では比較的安定した地位を得ていたことであった。従業員は品質管理運動などによって生産性向上に協力し、企業経営への参加意識が高かった。そのために生産現場のコスト意識が高く、企業別組合であるために、技術革新に伴う配置転換の必要性などにも柔軟に対応できるなどの特徴もあった。第二に、下請関係なども含めて緊密な企業間関係が比較的長期に維持される傾向にあった。組立加工型工業において、組立メーカーと主要部品メーカーの関係は、60年代になると両社間の技術交流によって部品メーカーの生産性向上を図り、一体となって最終製品のコスト削減を試みる面も生まれた。第三に、大企業には、メインバンクといわれる主取引金融機関があり、運転資金調達に関しては、メインバンクを中核とする協調融資が重要な役割を果たした。(岩波新書 シリーズ日本近現代史⑧ 高度成長 武田晴人著より)
 このような日本企業の特徴は、日本経済システムの後進性をあらわすものであるとされていたが、やがてこのような特徴が日本企業の強さの源泉だといわれるようになっていった。

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4 日韓基本条約・ヴェトナム戦争と日本
1)日韓基本条約
 1960年代に入ると、日本は賠償事業を通して経済進出をはかった東南アジア諸国へ、新たに経済援助や借款の供与を行って輸出を拡大していった。1961年、池田首相はインドなどの4か国を訪問し、1962年に政府間で経済援助と借款の供与を取り決め、その額を急増させていった。
 韓国との間では、1951年以来、国交正常化のための日韓交渉が続けられてきたが、交渉は難航していた。それは日本の謝罪・賠償問題さらに李承晩ライン(リーライン)とよばれる問題があった。リーラインとは韓国初代大統領・李承晩が周辺諸国との間に設定した海洋境界線のことである。アメリカは韓国政府にリーラインを認めることはできないと勧告したが、韓国政府はこれを無視し、日韓条約が締結されるまで、日本の漁船はのべ328隻、漁師3929人が拘束された。さらに領土帰属問題(日本名は竹島、韓国名は独島)、さらに在日韓国人の法的地位問題で交渉は長期化した。
 アメリカの東アジア政策での要請もあり、また1961年に軍人の朴正煕(ぼくせいき)がクーデターによって政権をにぎり、工業化を行って経済成長を進める方針を打ち出すと、交渉は一挙に進んだ。日韓両国では激しい反対運動が広がるなか、1965年に調印し国交が結ばれた。日本では、すでにヴェトナム派兵を決めていた韓国政府との国交正常化は、日・韓・米の軍事的関係を強化すること、南北分断をを恒久化することなどから反対運動が展開された。一方、韓国では、謝罪・賠償はなく、国家間の賠償・補償問題は解決済みとされたことにより強い反発があった。この条約による協定で、韓国が対日賠償請求権を放棄する代わりに、日本が総額8億ドル以上の資金を提供することが決められ、東南アジアと同じように日本企業の韓国進出が進むことになった。
2)ヴェトナム戦争と日本
 1965年、アメリカは南北間で対立が続いていたヴェトナムに本格介入した。さらにタイなどの東南アジア諸国や韓国などは軍隊を派遣し、周辺諸国はアメリカ軍の拠点になるなど周辺諸国を巻き込む戦争となり、これらのアジア諸国を経済的に支えることが日本に求められるようになった。
 佐藤内閣は、アメリカのヴェトナム介入を支持し、積極的な支援をはかった。また、1965年におこった不況で終わるかに見えた高度経済成長は、一挙に輸出を拡大し、いち早く立ち直った。
 しかし、ヴェトナム戦争と在日米軍基地とが深いかかわりをもったために政治問題化し、政党や労働組合の枠を超えたヴェトナム反戦運動が全国に広がった。なかでも沖縄では、B52戦略爆撃機が北ヴェトナム爆撃に向かったり、海兵隊も出撃していったため、出撃基地として基地問題が深刻化した。このため、基地を撤去し日本復帰を求める祖国復帰運動が広がっていった。そして政府間交渉の結果、1971年、沖縄返還協定が締結され、1972年に沖縄の日本復帰を実現した。しかし、日本政府は1967年に核兵器を「つくらず・もたず・もちこませず」という非核三原則を宣言していたが、返還にあたって、沖縄の嘉手納基地への核持ちこみが明らかとなり問題とされた。また、返還後も米軍基地は残されたままであり、米兵による少女暴行事件や米軍機の墜落事故など沖縄住民の犠牲は今も深刻である。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 第76回日本史講座は、4月14日(土)午後2時より行う予定です。

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3 農業基本法と開放経済体制への移行
1)農業基本法
 池田内閣の所得倍増政策は、農村にもおよんでいった。政府は、食糧管理制度のもと、補助金を投入して生産者米価を毎年引き上げていったため、消費者米価を上回るほどになった。その結果、米の供給過剰と食糧管理特別会計の赤字が深刻になり、1970年度から減反政策がはじまった。
 また、1961年には農業の近代化をすすめるための農業基本法が制定され、農業の近代化と農業生産性の向上、所得の増加をめざした。この結果、農家の所得水準は上昇し、地域間の格差は小さくなっていったが、兼業農家が増え、「三ちゃん(母ちゃん・じいちゃん・ばあちゃん)農業」が増加していった。
2)開放経済体制への移行
 高度経済成長政策は、貿易と資本を自由化して開放経済体制に移行し、先進国として世界経済に加わることをめざした政策でもあったが、それを可能にしたのは、1ドル360円という円安による貿易黒字がその背景にあった。
 日本は1963年にGATT(関税及び貿易に関する一般協定)11条国へ移行したが、それは国際収支を理由に輸出入の数量制限を行うことを禁止しており、貿易の自由化をめざしたものである。さらに1964年にはIMF(国際通貨基金)8条国へ移行したが、それは国際収支の赤字を理由に為替制限ができないことで、為替の自由化をめざしたものである。同年、日本はOECD(経済協力開発機構)に加盟し、資本の自由化をめざした。そして同年、日本はアジア初のオリンピック東京大会を開催するとともに、オリンピックにあわせて東海道新幹線を開通するなど、日本の先進国の仲間入りを印象付けた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 

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