(観光9日目)
8月7日(日)午前9時にバスで世界遺産アルジャディーダの観光へと向かった。この町の歴史は、1502年に始まったポルトガルの支配にさかのぼり、4年後にマザガンと名付けられる。ポルトガルはここに防衛施設を作り、地元住民の抵抗や、中央権力の封鎖、侵略にもかかわらず、2世紀以上にもわたってその支配が続けられ、モロッコに最後まで残ったポルトガル要塞となった。今もポルトガル風の町並みが残っている。
ポルトガル時代のマザガンの名前が見える。
最初に訪れたのがメディナ(旧市街)ポルトガル都市である。1502年にポルトガル人によって造られたこのメディナは、現在でも約3000人が生活している。他の町のメディナに比べるとひっそりとしている。
アルジャディーダのメディナ(旧市街)
次に、稜堡(見張り台)の見学へと向かった。『地球の歩き方』によると「16世紀の初め、ポルトガル人は大西洋沿岸の港町を支配し、要塞を築いた。城壁の上には塔がそびえ、その両側には大砲の攻防に備えて円形や四角形の稜堡と呼ばれる見張り台が建てられた。アルジャディーダとエッサ・ウィラにはこの四角形の稜堡が造られている。」と書かれてあるように、エッサ・ウィラと同じような稜堡(見張り台)がアルジャディーダにもあった。
アルジャディーダの稜堡(見張り台)
次に、ポルトガルの地下貯水槽を訪れた。この貯水槽は16世紀に倉庫として作られたが、1641年に敵に包囲されたときに貯水槽として改造された。25本の柱で支えられたこの地下室は、一辺が34mで、天井には直径3.5mの円形の窓が開いており、光と陰の効果を出して大変美しいものであった。
ポルトガルの地下貯水槽
アルジャディーダの町を見学した後、私たちはバスでカサブランカへと向かった。距離は99㎞、所要時間は1時間30分の行程である。
カサブランカは、人口400万人を超える町で、モロッコ最大の経済都市である。古くはアンファ(丘)と呼ばれていたこの町は、カルタゴ人の市があった。その後、12世紀のムワッヒド朝時代には、アラブ人の海賊の拠点でもあり、すでに貿易港として発展していた。14世紀になるとベルベル王朝、マリーン朝によるイスラム化が始まる。16世紀になると、ポルトガル人はここに要塞を建設し、カサブランカ(白い家)と名付けた。しかし、1755年の地震と近隣の種族の抵抗のため、ポルトガルはこの町を去った。18世紀になるとアラウィー朝のアブダラにより再建される。その後、1907年のフランス占領後は、ヨーロッパの影響を受け、急速に近代化の道を歩んでいくことになる。
私はこの町の名前は、アメリカ映画「カサブランカ」によって知っていたが、この旅行に来る前にもう一度この映画をDVDで見てきた。しかし、この映画はアメリカで撮影されたものであり、モロッコでは一切撮影されていないということだ。
私たちが最初に訪れたのは、モロッコ最大のモスクであるハッサン2世モスクである。『地球の歩き方』によるとこのモスクは、「1986年から8年がかりで1993年に完成された。大西洋の面した9ヘクタールの敷地に、モスク内は2ヘクタール。全敷地には8万人、内部には2万5000人が収容可能。ミナレットの高さは200mで、世界最高を誇る。」と書かれてある。このモスクの扉の前に立って、いかにこのモスクが大きいかを実感することができた。この扉は、人間の力では開けることができない、すべて電動であるということだ。また、今はまだできていないが、ミナレットにはエレベーターを設置するとのことである。
ハッサン2世モスク
次に訪れたのが、噴水のあるムハンマド5世広場である。この広場の隣には市庁舎、裁判所、中央郵便局、劇場、フランス領事館などがある。
ムハンマド5世広場
次にメディナ(旧市街)を訪れたが、これがモロッコでの最後の観光となった。ここには珍しい水パイプが売っていた。私は、トルコかイランのどちらかで水パイプを試したことがあるが、あまりおいしいとは思わなかった。
水パイプのお店
カサブランカのホテルに到着したのは午後4時であった。夕食までに時間があったので、私たちは添乗員さんの案内で、近くのスーパーへと向かった。地図にはカルフールと載っていたので、大きいスーパーと思っていたが、小さいスーパーなので、間違いではないかと思ったが、そこのスーパーの名前はカルフールだった。そこで、私は残っていたモロッコの通貨(ディルハム)でチョコレートを購入した。モロッコの通貨1ディルハムが約10円でトイレのチップ代、枕銭は5ディルハムだった。マラケッシュのフナ広場で食べたソフトクリームが5ディルハムでとてもおいしかった。しかし、町の小さな駄菓子屋のアイスキャンディーが12ディルハムは少し値段が高いと思った。ガイドのフワットさんの話では、モロッコ人の平均月収が2万円であり、しかもボーナスも退職金もないということなので、その割には物価が高いと思った。
モロッコの通貨(ディルハム)(左が国王のムハンマド6世、右が前国王のハッサン2世)
以上でモロッコの観光は終わった。 最後にバスの中で出されたモロッコについての質問とガイドのフワットさんの回答をまとめてみた。
(教育制度について)
日本と同じく小学校6年中学校3年高校3年制だが、大学は3年だけである。国立大学の数は10校、私学は2校だけある。公立は小学校から大学まで無料。高校卒業時にバカロレヤというテストがあり、これに合格しなければ大学には進めない。バカロレヤは2回失敗するともう受けられない。バカロレヤ合格者から大学進学は57%で、同世代での大学進学率は30%である。バカロレヤ合格後、2年の間に大学へ進学しなければ資格を失う。フランス語は8歳(小学校3年)から全員学習し、15歳(高校生)から英語・スペイン語・ドイツ語の中から一つを選択するが、英語を選択するものが多い。モロッコ人は、高校で、アラビア語・フランス語が必修で、選択でもうひとつの語学を勉強しなければならない。
次に、教員になるための制度としては、バカロレヤ合格後、4年制の教育学校(専門学校)に合格しなければならない。
医学部や薬学部は、バカロレヤ合格後に入学テストに合格して7年間大学で勉強しなければならないが、心臓などの専門分野の学生は、さらに3年勉強が必要である。
休暇について、6月の終わりに学年が終わり、7月・8月と休んで9月15日から新学年が始まるので、夏休みは2ヵ月半ある。春休みは10日間、秋休みも10日間ある。イスラム圏では普通、金曜日が休日であるが、モロッコは土曜・日曜日が休み。しかし、学校は土曜日は1日授業がある。
(宗教について)
99.99%がイスラム教徒で、そのうち、100%がスンニー派である。0.001%がユダヤ人。
モロッコ人の男性は、キリスト教徒とユダヤ教徒とは結婚できるが、仏教徒などその他の人とは結婚できない。女性は、イスラム教徒以外の人とは結婚できない。また、モロッコ人は、他の宗教に改宗できない。
現代のモロッコ人は、年齢を数えたり生活の中心は、西暦(太陽暦)を使っており、宗教的儀式のみイスラム暦(太陰暦)を使用している。ほとんどの家庭には、西暦・イスラム歴二つのカレンダーを貼っている。
他のイスラムの国では、幼い時に割礼をしてしまうが、モロッコでは14歳の男子に割礼をおこなっている。割礼後、大人になったお祝いをするらしい。
絵に描かれた割礼の様子
(結婚について)
田舎の女性は昔通り早婚であるが、カサブランカなどの都会の女性の結婚年齢は上がっており、自分で働いて生活する女性が増えている。
(女性の就職率)
25%の女性が働いている。カサブランカの女性はたくさん働いている。
(兵役制度)
18歳から18ヶ月間の徴兵制度があるが、兵役制度の代わりにボランティアに行くこともできるが、殆どの人は兵役へ行く。
(死刑制度)
死刑制度はあるが、実施されていない。あるならば銃殺刑である。法律で死刑制度廃止の方向に流れている。
(酒・たばこ・ディスコ)
酒・たばこ・ディスコは18歳以上は認められているが、モロッコ人は酒を飲まない。
(国旗について)
赤は血、緑は植物の色(自然)、星はイスラムの五行(信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼)を表す。
(平均寿命)
男性73歳、女性80歳
(識字率)
50%、40代以上の人で字の読めない人が多いため。
(モロッコの外交)
中国との関係は良い。アメリカとの関係も良い。
(日本人に対する評価)
日本は自動車や電気製品などを作る工業国として尊敬されており親日的である。
(アラブ人とベルベル人との関係)
混血がすすみ、ベルベル人に対する差別はない。
(王政について)
1カ月前まで、首相の任命権は国王にあったが、今、日本のように、選挙で多数をとった政党から首相を選出するようになった。国民は国王を尊敬している。
(子供たちに人気のある職業)
男子はサッカー選手や医者、弁護士、コンピューター関係、理系に人気が高い。
女子は学校の先生で、収入も高く、休みが多いので人気がある。
(失業率)
10%ぐらいだが、北アフリカではまだましな方である。
(チュニジアのジャスミン革命について、若者はどのように思っているか。また、フワットさんはどう思っているか。)
革命は当然であるが、モロッコの今の政治は国民のための政治をおこなっているので、満足しているが、一部の若者がデモをおこなっても武力で弾圧はしない。私も同じ意見である。
以上、たくさんの質問にガイドのフワットさんは答えてもらった。最後の質問をしたとき、他の参加者から批判を受けたが、どうしても聞きたかったのである。なぜなら、昨年の2月末にチュニジア旅行に行ったときに、「なぜ、ベン・アリ大統領が長く政権をとれるのか」という質問に対し、ガイドさんは、「税金を軍事力ではなく福祉に使用し、国民に人気があるから」と答えていたが、1年もたたない間に政権は崩壊した。モロッコでも、チュニジア以上に貧富の差があるように思われる。
この国の国王は、世界の国王の中で7番目に金持ちである。その理由は、モロッコで重要な輸出産業である、リン鉱石を持っているからだという。私たちが訪れたいたるところに立派な王宮があり、王に富が独占されているように思われる。チュニジアで革命が成功した背景には、若者は高学歴で、ツィッターなどで情報が広がったからだと思われる。このような革命が、エジプト、リビア、シリア、イエメンなどに広がっていったのであるから、やがてはモロッコにもその波は押し寄せてくるのではないかと思われる。
翌朝、カサブランカの空港からチュニスを経由してドーハで乗り換え、関空に着いたのは、8月9日(火)の午後6時頃だった。
以上、長々とここまで読んでいただいて本当にシュクラン(ありがとう)。