幕府が鎖国政策をさらに強化した背景には、島原の乱が起こったことにある。ウィキペデアによると、この乱は江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦であると指摘する。
島原の乱はキリシタンが起こした宗教戦争的な側面と圧制に対する百姓一揆という二面性を持っている。なぜこの地方にキリシタンシンが多かったというと、この地方はキリシタン大名の領地であったことに由来する。島原はキリシタン大名の有馬晴信の所領で、キリスト教信仰が盛んであったが、転封で大和五条から松倉重政が入封した。また、天草はキリシタン大名の小西行長の所領で関ヶ原の戦い以後、寺沢広高が入封し、両藩とも圧制とキリシタン弾圧をおこなった。
① 松倉氏の圧政
松倉重政が島原に入封した時には、キリシタンに対して寛大であった。これに対し徳川家光はみずから参勤した重政に叱責を加えたと伝えている。1627年から1631年にかけて、松倉氏の残忍きわまりないキリシタン弾圧が行われたのはそのためであるといわれている。朝尾直弘氏によれば、水責め・あびり籠め・烙印・指づめ・穴つるし・針さし責め・竹鋸引き・木馬責め、それに雲仙岳の煮えたぎる硫黄の熱湯をかけるなど、手段の限りのテロと拷問、刑罰をつくし、さらに陵辱を加えたと述べている。(小学館『日本の歴史17』参照)
② 乱の契機
島原・天草地方は1634年以来凶作にみまわれていた。松倉氏はきびしい取り立てを続けるだけで対策をもたなかった。口ノ津村の大百姓与三右衛門(よそえもん)は、未納の年貢米30俵の猶予を願ったが認められず、嫁を捕らえて水牢に入れ、上納するまで出さぬと攻めた。嫁は妊娠中で産み月にあたっており、昼夜6日間水につけられたあげく、10月にはいって水中で出産し息絶えた。与三右衛門はこの非道に怒り、近隣や親類縁者をふくめ7,8百名の百姓が役人の家を焼き払ったのきっかけに、島原の乱へと広がっていった。(前掲書参照)
③ 天草四郎
上の様な事実から、島原の乱は明らかに百姓一揆として起きたように見える。しかし、この乱が3万8000人もの多くの人々を結集させた背景にはキリシタンという宗教戦争的な性格を持っていたことは間違いないであろう。そのカリスマ的な役割を果たしたのが天草四郎時貞である。彼は小西行長の遺臣益田好次(よしつぐ)の子でまだ16歳の少年であった。

④ 乱の敗北
反乱群は島原城を攻めたが、これを落とすことができず、一国一城令で廃墟となっていた原城址に立てこもることとなった。幕府は板倉重昌(しげまさ)を派遣して鎮圧させようとしたが、反乱軍のきびしい抵抗にあってなかなか陥落しなかった。そこで老中松平信綱がついで派遣され、12万の兵を持って原城を囲んで兵糧攻めをしたり、オランダ船に援護射撃を求めたりした結果、やっとの事で1638年2月に城を陥れることができた。
島原の乱を扱った小説に堀田善衛『海鳴りの底から』がある。この本を若い頃読んで感動したのを覚えているが、ぜひ皆さんにも読んでいただきたい。

4) 鎖国下の管理体制

この乱に驚いた幕府は、1639年にポルトガル船の来航を禁止し、1641年には宗教活動を行わないオランダ人を平戸から長崎の出島に移し、日本人との自由な往来を禁止した。
幕府は、長崎奉行にオランダ人の動向を監視させながら、オランダ商館長に海外情報を記した和蘭風説所(おらんだふうせつがき)を老中へ提出させるようにした。
さらに幕府はキリスト教の取り締まりを一層強め、キリシタンでないことを確かめるためにキリストの絵などを踏ませる絵踏(えふみ)の実施と、すべての人々をいずれかの寺院の檀徒として所属させ、宗門改帳に登録させる寺請制度を行った。寺請制度はお寺が幕藩体制という国家権力に結びつくこととなったことにより、寺院の数は飛躍的に伸びていった。現在もお寺の数はコンビニの数よりも遙かに多い。しかし、お寺がこのような国家権力の手先となったことにより、仏教は魂の救済という宗教的な側面を失い、葬式仏教と呼ばれるように堕落していったのではないかと私は思う。
