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 デュルビュイの観光後、私たちはバスでルクセンブルクへと向かった。デュルビュイから距離で約140㎞、所要時間は約2時間30分である。バスは予定通り午後4時にルクセンブルクに到着した。
 到着後、私たちは現地ガイドのアレックスさんの案内でルクセンブルクの観光へと向かった。アレックスさんは30代の男性でガイド以外にもメディアの通訳の仕事を持っているとのことであった。彼は英語で説明し、それを添乗員の中川さんが日本語で通訳してくれた。
 彼の話では、ルクセンブルクは963年、アルデンヌ家のジーゲフロイト伯爵が、今の首都の領土に城を築いたことに始まる。その当時、砦を“ルシリンバアック”(小さな城)と呼んでおり、それが変化してルクセンブルクとなった。面積は神奈川県とほぼ同じで、人口は約56万人でそのうち49%が移民である。公用語はルクセンブルク語(ドイツ語がフランス語の影響を受けて成立したもの)、フランス語、ドイツ語であるが、ほとんどの人は英語も話すことができるため、ルクセンブルク人は4カ国語を話すことができる。
 私たちは憲法広場の東にあるノートルダム大聖堂へと向かった。
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(ノートルダム大聖堂)
 この大聖堂が建立されたのは 17 世紀のことで、当初はイエズス教会として造られ、1870 年に大聖堂へと昇格した。主に後期ゴシック様式の建築であるが、ルネッサンスやバロックの要素も取り入れられている。
 大聖堂の内部には荘厳なステンドグラスを見ることができた。
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(ステンドグラス)
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(パイプオルガン)
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(身廊)
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(ファザード彫刻)
 大聖堂の見学後、私たちは大公宮へと向かったが、途中に赤・白・青のルクセンブルクの国旗が立っている広場に女性の銅像が見えた。
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(銅像の建っている広場)
 この広場の名はクレール・フォンテーヌ広場でそこに建っている銅像はシャルロット・ルクセンブルク大公である。1919年に即位して1964年に息子に譲るまで在位の期間は長く、その間の業績も含めてルクセンブルク国民に人気が高い。
 大公宮は大聖堂から10分ほどで到着したが、思ったほど立派な建物ではなかった。
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(大公宮)
 この建物は15世紀頃に市庁舎として建造されたが、1554年に火薬の爆発により破壊され、1573年頃よりアダム・ロベルティにより再建された。1891年より大公宮となり大公の執務室兼迎賓館として使われている。
正面のアラベスク模様は当時のままの面影を残している。
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(大公宮)
 大公宮を見学した後、私たちはルクセンブルクの旧市街が見渡せる高台へとやってきた。
 崖の上に造られた建物は砲台の跡であり、ボックの砲台と呼ばれている。
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(ボックの砲台)
 この砲台は963年にアルデンヌ伯が最初に築いた要塞である。
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(砲台の横の高架橋を列車が走っていた)
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(グルント(低地)の街並みが見える)
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(遠くに見える高層ビルはヨーロッパ連合の建物)
 現在、ヨーロッパ連合の建物で13.000人が働いている。
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(サン・ジャン教会が見える)
 この教会は、14世紀にドイツ皇帝でもあったルクセンブルク公アンリ7世によって建てられたが、その後、17世紀に戦火のため再建された。現在は女子刑務所として使われている。
 ルクセンブルクの旧市街を観光した後、私たちはホテルへと向かった。
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 モダーヴ城を見学した後、私たちはバスで「世界で一番小さい町」といわれているデュルビユイへと向かった。距離で20㎞、所要時間は約30分である。
 バスは予定通り午前11時30分にデュルビユイに到着した。
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(ウルト川沿いのデュルビユイの町)
 デュルビユイ観光局によると、「リエージュから直線にして15キロ、ウルト川沿いに道路で60キロほ ど南下した場所にある“世界で一番小さな”古代からの町。緑深いウルト渓谷にすっぽりと包まれるようにしてデュルビュイの町はあります。 絵本のような、人口500人足らずの世界で一番小さな町。グルメの里 としても有名。」と書かれてある。
 私たちは小さな町の散策へと向かった。「グルメの里」と書かれてあるように、すぐにレストランが目に付いた。
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(レストランが並んでいる建物)
 町を散策していると大きな中世の城が見えた。
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(中世の城)
 観光局によると、「9世紀に起源するデュルビュイ伯の城館(のちにル クセンブルグ伯の城館に)、今は郷土資料館になって いる16世紀に建てられた穀物取引所などがあります。人口の割に高級レストランやホテルも多く、本格的 なアルデンヌ料理が楽しめます。このあたりはリュク サンブール州。ウルト川はベルギーの南部を占めるアルデンヌ高地を刻んで流れています。高度は500メー トルを越えませんが夏は涼しく、ベルギーのみならず、 隣国のオランダやフランスの人たちにとっても、格好のリゾート地として人気があります。」と書かれている。
 私たちはミシュラン4星の高級レストランに入ってランチを食べた。
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(私たちが入ったレストラン)
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(レストランで飲んだ地ビール)
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(前菜)
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(メインのサーモンとアスパラガス)
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(デザート)
 さすがに4星のレストランだけあって、料理はとても美味しかった。このレストランは皇太子夫妻もきたことがあり、このレストランで作っているワッフルをお土産に買っていったとのことである。
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(お土産のワッフル)
 ワッフルが入っていた缶は、愛子様のビー玉入れになっていたと現地ガイドが教えてくれた。私たち夫婦もお土産にワッフルを購入することにした。
 食事を終えてフリータイムとなったので、私たち夫婦は小さな街を散策した。
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(レストランが並んでいる)
 途中、デュルビユイの町がコピーされている自動車を見つけた。
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(町がコピーされている自動車)
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(中世の城)
 私たち夫婦はこの町の端まで歩いた。
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(町の終わりの印)
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(ウルト川でカヌーを漕いでいる)
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(川の景色)




 
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 第5日目(観光4日目)
 4月15日(金)午前8時30分にブリュッセルのホテルを出発し、バスでアルデンヌ地方にあるモダーヴ城へと向かった。距離で約100㎞、所要時間は約2時間の予定である。
 アルデンヌ地方とは、百科事典によると、「ベルギーのリュクサンブール州の大半とナミュール州およびリエージュ州の一部,ルクセンブルクの一部,フランスのアルデンヌ県の一部にわたる約 1万平方㎞の高原。大半は標高 500mをこす。ムーズ川,モーゼル川に流入する諸河川の分水界をなす。大部分が森林で被われており、ローマ時代にケルトの森の女神アルデュイナに由来する。」と書かれている。古代ローマ時代から交通、軍事の要衝として栄えてきた地方であり、そのため、中世から様々な城や要塞が造られ、現在も貴族の流れをくむ人々が住んでいる。私たちは中世の古城の一つであるモダーヴ城を見学した。
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(モダーヴ城)
 オユー川沿い約60㎞の断崖の上に建つこの城は、13世紀の領主モダーヴ家によって建てられ、その後オートベンヌ家、サン・フォンテーヌ 家と受け継がれ、17世紀にはマルシャン伯爵によりフランス様式によって全面改築された建築物である。
 建物内部には、マルシャン家の紋章と家系図が彫られている「衛兵の間」と呼ばれる大広間や「ゴブラン間」、「公爵の間」などがあった。
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(マルシャン家の紋章)
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(「ゴブランの間」)
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(「公爵の間」)
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(公爵の間)
 「公爵の間」という名は、この部屋の装飾が主に18世紀にこの城の領主であったモンモランシー公爵であったことに由来する。
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(「小広間」の噴水)
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(城から見える渓谷)
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(城の塔)
 モダーヴ城内部の見学を終えて外に出ると、城の庭園が見えた。
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(城の庭園)
 城の外にはきれいな並木道が見えた。
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(城へと続く並木道)

 
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 「小便小僧」を見学した後、午後の8時までフリータイムとなった。私たち夫婦は先ずベルギーのお土産を買うことにした。なぜならベルギーでは商店が早く閉まるからである。ベルギーのお土産といえばチョコレートで、特にゴディヴァとノイハウスが有名である。グランプラスにはゴディヴァの本店があった。
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(ゴディヴァの本店)
 私たち夫婦はここでチョコレートを買った後、グランプラスのすぐ近くにあるギャルリー・サン・チュベールと呼ばれるショッピングセンターでもノイハウスのチョコレートを購入した。
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(ギャルリー・サン・チュベール)
 ギャルリーとは、ショッピングアーケードのことで、これは王妃の命により、ベルギーの有名な建築家によって1847年に完成したヨーロッパでも最も古いギャルリーのひとつである。
 買い物を済ませた後、私たち夫婦はかなり遠いがEU本部の建物があるところまで歩くことにした。
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(『地球の歩き方』より)
 途中、立派な建物が目にとまったが、サン・ミッショエル大聖堂であった。
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(サン・ミッショエル大聖堂)
 ガイドブックによると、「1962 年に大司教区の大聖堂に昇格し、1516年にカール5世が戴冠式をしたことでも有名である。荘厳なゴシック様式の建築美でその名を知られる大聖堂は、その地下から古くローマ時代の遺跡が発見されたことでも知られている。ブリュッセルでも最も重要な史跡として知られるサン ミッシェル大聖堂の内陣は、当初 13 世紀に建築されたと言われていた。しかし、1980 年代の改装工事中にその下から 11 世紀まで遡る遺跡が発見され、その上に現在のゴシック様式の建築物が建てられていたことが判明した。」と書かれている。
 大聖堂から10分ほど歩くと国会議事堂が見えた。
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(国会議事堂)
 国会議事堂の前にはブリュッセル公園があった。
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(ブリュッセル公園)
 この公園の広さは13ヘクタールもあり、公園内ではジョギングをしている人を見かけた。公園から真っ直ぐEU本部に向かって15分ほど歩くと、閉鎖された地下鉄の駅前に花束が置かれていた。
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(地下鉄駅前に置かれた花束)
 2016年3月22日にブリュッセルの空港とEU本部の近くの地下鉄で自爆テロがあり死者34人とニュースで報道されていたが、私たち夫婦が訪れた4月14日も地下鉄は閉鎖されていた。5月17日現在、ようやく地下鉄の駅は開かれたとのことである。
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(花束の横に蝋燭と写真が置かれていた。)
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(亡くなった人へのメッセージらしきものが書かれていた。)
 花束が置かれた地下鉄から3分ほど歩くとEU本部の建物が見えてきた。
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(EU本部の建物)
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(EU本部の建物)
 EU本部の建物を見た後、私たち夫婦はさらに足を伸ばして凱旋門まで歩いた。
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(凱旋門)
 この凱旋門はベルリンで見たブランデンブルグ門とよく似ていた。
 凱旋門を見た後、私たち夫婦はカルフールでサンドイッチを買ってブリュッセル公園で食べた。その後、添乗員さんが教えてくれたカフェに入ったが、同じツアー仲間ともそこで出会った。
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 グロート・ベイハールデン城のフラワーショーを見学した後、私たちはバスでブリュッセルに戻り、徒歩で市内観光へと向かった。最初に見学したのは、前に一度訪れたことがあるグランプラスである。グランプラスとは大広場という意味で、ブリュッセルの中心地に位置する。ヴィクトル・ユゴーが「世界で最も美しい広場」と賞賛したことでも知られるこの大広場は、1998年にユネスコの世界遺産に登録された。
 しかし、グランプラスを取り囲む建物は1695年8月13日、ルイ14世の命令によるフランス軍の砲撃で大半の木造建築が破壊され、残されたのは石造の市庁舎だけである。そのため現在の建物はその後に様々なギルドによって石造によって再建されたものである。
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(西側の建物)
 西側の建物は各種のギルドハウスが列んでいる。
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(市庁舎)
 市庁舎は1402年から1455年の間にゴシック・フランボワイヤン様式で建造されたものである。この建物は中世におけるグランプラスの建築様式を伝える唯一の証人となっている。
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(王の家)
 「王の家」と呼ばれている建物 は、12世紀以降パン市場として親しまれた木造建築物で、15世紀になると石造にかわり、ブラバント公の行政庁が置かれた。これが理由で人々はこの建物を「公の家」と呼ぶようになり、公がスペイン王になると「王の家」と呼ぶようになった。のちにカール5世は自分の塔をゴシック様式で建てさせた。その後1695年の砲撃などで損傷したため、現在のものは1875年にネオゴシック様式で再建されたが、さらに1985年に改築され、現在は市立博物館になっている。
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(南側の建物)
 南側の建物も各種のギルドハウスが並んでいる。
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(ブラバン公爵の館)
 1882年に建築された館は、正面に歴代のブラバン公の胸像が飾られているため、この名前で呼ばれている。正面部分はコロサルといわれる建築様式が用いられているが、古典建築と呼ばれるこの様式は、バロック様式であるイタリア・フラマン様式を変化させたものである。建物はイタリアの影響を受けているとされているが、屋根の形状はフランスの影響を受けている。
 グランパレスを見学した後、私たちは「小便小僧」を見に出かけた。途中、ホテル・アミーゴという建物があった。
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(ホテルアミーゴ)
 ガイドブックによると、「この建物は16世紀~19世紀に監獄として使われていた所。フランデレン語で監獄の意味を持つ「VRUNTE」という言葉が友達の意味の「VRIENDT」と発音が似ているため誤訳され、「アミーゴ」(スペイン語で友達)と呼ばれるようになった。1873年にフランスの詩人ヴェレーヌが詩人ランボーに発砲しここに投獄されたことでも有名」と書かれている。
 「小便小僧」は想像以上に小さな像であった。
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(小便小僧)
 小便小僧は世界中どこにでもあるが、ブリュッセルの像が起源とされている。1619年にフラマン人彫刻家ジェローム・デュケノワによって製作された。その由来には諸説ある。その一つは、ブラバント公ゴドフロワ2世に関する説。1142年、当時2歳のゴドフロワ2世率いる軍は、グリムベルゲンでの戦いの際、戦場の兵士を鼓舞するため、ゆりかごに幼い支配者を入れて木に吊るした。 そこから公は敵軍に向かって小便をし、味方軍を勝利に導いたという。一つは、反政府軍がブリュッセルを爆破しようとしかけた爆弾の導火線を小便をかけて消し、町を救った少年がいたという武勇伝説。この少年の名はジュリアンといい、小便小僧の愛称「ジュリアン坊や」はここに由来するといわれている。
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(小便小僧)
 
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 アントワープのレストランでランチを食べた後、私たちはブリュッセルの近郊にあるグロート・ベイハールデン城へとバスで向かった。その目的は、この城の庭園で春の1か月間だけベルギー最大の球根花のフラワーショーが開催されており、それを見学するためである。
 ベルギー・フランダース政府観光局によると、「毎年100万株以上のチューリップ、スイセン、ヒヤシンス、ムスカリ、ユリなどが14ヘクタールの見事な庭園に咲き乱れ、多くの人々の目を楽しませています。」と書かれている。
 バスは1時間ほどでグロート・ベイハールデン城に到着した。
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(グロート・ベイハールデン城)
 この城はフランス語ではグラン・ビガール城と呼ばれる。この城の庭園について、「この庭園の起源は1731年にさかのぼります。 ベイハールデン城主、侯爵夫人ヘレナ・ヒヤシンス・ド・ボーイスコートが、ベルサイユ宮殿やヴォー・ル・ヴィコント城の庭によって当時の流行となっていたフランス式庭園を造園家F.J.ドロンスに造らせました。 1902年には国王レオポルド二世のために数々の公園を整備した造園建築家ルイ・フックスによって、庭園の一部は英国式庭園に造りかえられました。」と観光局は説明している。
 私たちは約1時間30分のフリータイムで庭園の散策へと向かった。
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 観光局によると、「400種のチューリップをはじめ、500種以上の様々な花が、鮮やかな彩りを見せ、壮観な花絵巻といったところです。 芝生の緑とのコントラストも美しく、庭園の散歩道をゆったりと楽しむのがお勧めです。 樹齢100年の大木の下には、原生チューリップ、ツツジ、シャクナゲ、ブルームスカリなど、野生の花のじゅうたんが一面に広がります。」と書かれている。
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 私たち夫婦は温室にも入った。
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 観光局によると、「大きな温室にはブーケやフラワーアレンジメントが展示され、毎週1万本以上の生花が取り寄せられます。」と書かれている。
 お城には塔がありその中に上ることができた。
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(庭園の中にある塔)
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(塔の内部 中世の甲胄が置かれている)
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(この城主の紋章か)
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(塔から見た庭園)
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(唐から見たお城)
 観光局によると、「庭園は、毎年4月初めから5月初めの約1か月だけ一般公開されます。 それ以外の期間は翌年の開園の準備に充てられ、大勢の庭師が新しい球根に植え替えます。」と書かれている。わずか1か月の開園のために11か月をその準備にあてるとはなんとぜいたくなものだと私は感心した。そして、この時期にこんな天候に恵まれてこの庭園を鑑賞できたことに感謝した。
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 次に私たちは現地ガイドの野原さんの案内でルーベンスの『聖母被昇天』を鑑賞した。
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(『聖母被昇天』)
 ガイドブックによると、「すでに400年間主祭壇を飾っているこの印象的な油彩画は大聖堂の守護聖人、聖母マリアに捧げられています。聖母の昇天の場面が描かれていますが、このテーマは教会の伝承から生じたものであって聖書自体に基づいているものではありません。しかしルーベンスがこの祭壇画を制作した1625年、1626年当時には非常に人気のあるテーマでした。
 マリアが石棺を後にし、雲と陽気な天使達に支えられ軽やかに天へと昇っていきます。彼女の髪と衣はゆったりと風になびき、期待に満ちたその目は天に向けられています。左上から大きな天使が2人バラの花冠をマリアに捧げるためにやってきます。下方の残された石棺の周りには12使徒と、伝説によるとマリアの死の床にいたとされる3人の女たちが佇んでいます。
 ルーベンスは何年にもわたり、聖母被昇天のテーマでスケッチや絵画の作製を繰り返していました。それら全ての聖母被昇天は構図に関してはかなり似通っていますが、この絵の輝くような美しさと繊細な光と色の効果のすばらしさはその中でも突出しています。」と書かれている。
 次に私たちはルーベンスの『キリストの降架』を鑑賞した。
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(キリストの降架)
 ガイドブックによると、「『キリストの降架』(1611年~1614)は『キリストの昇架』のわずか数年後に描かれた作品ですが、その作風にはすでに『キリストの昇架』との違いが見られます。明快さが増し、光は柔らかくなっています。人物の動勢はしなやかさを帯び、作品全体より古典的な様式でまとめられています。それでもこの三連祭壇画の壮大さ、崇高さ、効果的な対角線使い、劇的な画面構成はバロックの典型であると言えます。」
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(中央パネル)
「 中央パネルは、8人の人がキリストの体を慎重に十字架からおろしているところです。上部には2人の無名の男、右側にニコデモ、左側にアリマテアのヨセフ、その下にキリストに向かって腕を伸ばす聖母マリア、中央に燃えるように真っ赤な衣裳のヨハネ、下部にクレオファスのマリアとマグダラのマリアがいます。人々はキリストの体を白い帷子(かたびら)(キリストの体、聖体を意味する)で受け止めています。」
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(左側のパネル)
 「『キリストを担う者』というのがこの三連画の共通したテーマです。左側のパネルにはイエスを宿したマリアが、同じく妊娠している従姉のエリザベートを訪問する場面が描かれています。このときエリザベートの胎内で宿っていたのがのちの洗礼者ヨハネです。二人はそれぞれの夫ヨセフとザカリアに付き添われています。」
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(右側のパネル)
 「右側のパネルはマリアが小さなイエスを高位聖職者シメオンの前にひざまずいています。ヨセフが手にいけにえの鳩を持ちシメオンの前にひざまずいています。」と書かれている。
 ガイドブックに「大聖堂の翼廊と身廊の交差部に『祝福の塔』と呼ばれる塔の43mの位置に円形の絵画が見えます。」と書かれているが、確かに天井に絵画が見えた。
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(『聖母被昇天』)
 ガイドブックによるとこの絵画はコルネーリス・シュフットが描いた『聖母被昇天』である。「うずまくような多数の天使達に囲まれ、輝かしい光を浴びて天へと昇っていくマリアが描かれています。マリアはもう少しで、父なる神と神の子キリストのもとへたどり着きます。」と書かれている。
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(大聖堂の立派なファサード)
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(大聖堂の二つの塔 塔の高さの違いがよくわかる)
 大聖堂のそばに「フランダースの犬」の絵が祈念碑として置かれていた。
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(フランダースの犬の絵)
 日本で人気があった「フランダースの犬」の主人公の少年ネロは、大聖堂のルーベンスの絵画を見ることが夢であったことから、日本人向けにこの祈念碑が置かれたのであろう。ガイドの野原さんによると、ベルギーのほとんどの人は「フランダースの犬」という小説を知らず、日本の観光客によって始めて知ったとのことである。
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(ノートルダム大聖堂の前に立つルーベンス)
 大聖堂の見学後、私たちはアントワープの市庁舎を訪れた。
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(アントワープの市庁舎)
 この建物は1561年~1565年にかけてルネサンス様式で建てられたものである。市庁舎の前の広場中央には、ブラボーの像が付いた噴水があった。
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(ブラボー像の噴水)
 ブラボーとはベルギーの伝説上の古代ローマの兵士である。スヘルド川の川岸の城に住む巨人は、城付近を通り過ぎる船に通行料を求め、それに応じない者に対しては、その手を切り落として河へ放り捨てた。しかし、ついにブラボーが巨人の息の根を止め、その手を切り落として河へ投げ捨てたという。アントワープの名前の由来は、手(アント)を投げ捨てる(ウエルペン)からきているといわれている。
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 現地ガイドの野原さんの案内で私たちは世界遺産のノートルダム大聖堂へと向かった。途中、立派な建物が目に入ったが、あれは肉屋のギルドハウスとのことである。
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(肉屋のギルドハウス)
 この建物は1504年に後期ゴシック様式で、肉屋のギルドハウスとして建てられたものであるが、現在は博物館として当時の家具や楽器などが展示されていると野原さんが教えてくれた。
 肉屋のギルドハウスから5分ほど歩くとノートルダム大聖堂の立派な建物が見えた。
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(ノートルダム大聖堂)
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(ノートルダム大聖堂)
 ここで購入したガイドブックによると、「現在大聖堂の建っている場所には、9世紀から12世紀の間には聖母礼拝堂と呼ばれる小さな礼拝堂が建っていました。この礼拝堂は1124年には小教区教会の地位を得、12世紀中にはより大きなロマネスク様式の教会へと建てかえられました。壁や土台の跡から、この教会の大きさは長さ80m、幅42m、・・・
 1352年には、後にネーデルランド(ベルギー北部とオランダを合わせた地域)で一番大きなゴシック教会となる新しい教会、つまり現在の大聖堂の建築がはじまりました。当初は全く同じ形の2本の尖塔が立つ予定でした。
 建築開始から約170年後の1521年、ついに聖母教会が完成しました。南の塔は計画されていたものには程遠い高さにまでしか達していませんでした。その後1533年の10月5日から6日の夜にかけて起こった火事により、新しい教会の大部分が焼失してしまったため、すべての労力と資金をその修理に注ぎ込まざるをえなくなり、2本目の塔の完成は延期、結局は中止となりました。その間1559年に教会はアントワープ司教区の教会、つまり大聖堂となりました。」と書かれている。さらにガイドブックには数字で見る大聖堂として、
「①大聖堂の高さは北側の塔が123m、南側の塔65.3m、2つの塔の間の部分28m、翼廊と身廊の交差部ドームが43m、です。
②大聖堂の内部の長さは118m、翼廊の長さは67m、身廊の最大幅は53.5m、です。
③総床面積は8.000㎡、儀式の際には2.400席の設置が可能。収容可能人数は原則として25.000人です。
④屋根面積は10.000㎡です。
⑤大聖堂には7つの身廊、125本の柱、128枚の窓(うち55枚はステンドグラス)があります。
⑥ギルド全盛期には各ギルドが大聖堂内に自分達専用の祭壇を所有していました。その数は57に及びました。
⑦19世紀製のシュヘイヴェンオルガンには90の栓と5.770のパイプがあります。
⑧大聖堂のカリヨンは49個の鐘で構成されています。
⑨1507年製の鐘、カロルスの重さは6.434㎏です。
⑩大聖堂の維持には年間150万ユーロかかります。
⑪年間約360.000人が大聖堂を訪れます。」と書かれていた。
 この大聖堂にはルーベンスの最高傑作である祭壇画『キリストの昇架』『キリストの降架』『聖母被昇天』などがあった。私たちは野原さんの案内でこれらの絵画を鑑賞した。
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(キリストの昇架三連画)
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(キリストの昇架中央)
 ガイドブックによると、「ルーベンスはこの『キリストの昇架』を1609年から1610年にかけて、彼自身がキリスト受難の年齢とほぼ同年齢であった頃に描きました。この巨大な絵画(中央パネル460×340㎝、側面パネル460×150㎝)・・・は一度フランス軍によって持ち去られましたが、1815年にアントワープに戻され、1816年以来この聖母大聖堂に置かれています。8年間のイタリア留学を終えた後、ルーベンスはこの『キリストの昇架』によってネーデルランドにバロック芸術をもたらしました。進行形でとらえられた力強い人物表現がきわだち、それがこの絵画の劇的な迫力を膨らませています。描写全体としては一貫性がありバランスが取れています。中央パネル、蒼白なキリストの体がかかった十字架とそれを立てようと団結し渾身の力を込めている9人の死刑執行人、対角線を巧みに用いたこの場面には残酷な中にも美しさがあります。ルーベンスはそれまで絵画芸術においてほとんど触れられることのなかったこのテーマを、これまでの前例にないほど表現力に富む、激しい方法で描き出しました。このような人々に訴えやすい派手な芸術は反宗教改革運動のなか、芸術の持つ力を利用し威厳と自信を回復使用としていたローマカトリック教会の要望にこたえるものでした。」と書かれている。
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(キリストの昇架左側)
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(キリストの昇架右側)
 ガイドブックによると、「左側のパネルではヨハネとマリア(上部)、悲しげな女たち(下部)がこの出来事を見守っています。右側のパネルでは馬に乗ったローマの指揮官が刑を指揮しています。背景にはキリストと一緒に刑を受ける2人の盗賊の姿が見られます。1人はすでに十字架にはりつけにされ、もう1人は衣服をとられているところです。

 
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第4日目 (観光3日目)
 4月14日(木)午前8時前、私たち夫婦はブリュッセルのホテルの周りを散歩した。ホテルの名前はトーン ブリュッセル エアポートとついているが、空港からはかなりの距離があるようだった。ホテルの近くにはキャノンの工場があった。
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(ホテルの周辺 キャノンの看板が見える)
 しばらく歩いているとさすがに飛行場の近くなので、空には飛行機雲が何本も見えた。
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(空に飛行機雲が見える)
 勤め人らしき人達が歩いていくところをついていくと駅のホームに入った。
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(駅のホーム)
 駅のホームには切符を買わなくても入ることができた。やがてホームに電車が到着した。
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(ホームに電車が到着)
 電車内に自転車で乗り込む人が何人もいた。ベルギーもオランダと同じく土地がフラットで、自転車に適した国であり自転車の利用者が多い。両国とも自転車専用道路があり、自転車が猛スピードで走っている。私たち旅行者は自動車よりも自転車事故に気をつけて歩かなければならなかった。ちなみにオランダは人口以上に自転車の数が多いらしい。
 私たちは午前9時にアントワープに向けてホテルを出発した。距離で約45㎞、所要時間は約1時間の予定である。バスは予定通り午前10時にアントワープに到着した。アントワープの現地ガイドは野原さんという日本人の中年の男性であった。ベルギー第2の都市であるアントワープは15世紀から商業・金融の中心地として発展し、ブルージュとは異なり、現在も世界有数の港として活躍している。アントワープの動脈の役割を果たしているのが、スヘルド川であり北へ40㎞進むと北海につながっている。私たちはバスを降りてスヘルド川沿いを歩いたが、今が満潮で川の水位が最も高いとガイドの野原さんが教えてくれた。
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(アントワープの動脈であるスヘルド川)
 川沿いを歩いていると立派な城塞(砦)が目についた。
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(スティン城塞)
 野原さんによると、この城塞は10世紀から16世紀まで使われた要塞の一部であり、500年間にわたり牢獄や刑場としても使用されていた。
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(スティン城塞)
 城塞の前にはランゲ・ワッパーと呼ばれる巨人が立っている。この巨人は夜中にあらわれて人を驚かすといわれている伝説上の人物である。
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(スティン城塞)
 

 
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 ミハエル橋を見学したのち約1時間のフリータイムがあったので、私たち夫婦は鐘楼を上ることにした。鐘楼の高さは91mあるが、エレベーターがあったので今度は楽に上ることができた。
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(鐘楼から見た王立劇場)
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(鐘楼から見たゲントの町 近代的な建物も見える)
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(聖ニコラス教会が見える)
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(町の遠方に近代的な風車が見える)
 鐘楼から降りたのち私たち夫婦はミハエル橋に行き、レイエ川の右岸であるグラスレイを歩きコーンレイの景色を眺めた。
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(コーンレイ)
 レイエ川の左岸をコーンレイと呼ぶが、それは「穀物の埠頭」という意味で、その昔、小麦などの穀物が船で運ばれてきた川の港であった。そこにはバロック様式やネオクラシック様式、ロマネスク様式などで造られた元ギルドハウスや元ビール醸造所が列んでいる。
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(グラスレイの元ギルドハウス)
 グラスレイとは「香草河岸」という意味で、中世から近世にかけて、ゲントでは川や運河を利用した海運業・商業が発展した。グラスレイは当時の商業の中心地で、12~17世紀のギルドハウスをはじめとした歴史的建造物が集中している。
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(グラスレイの建造物)
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(旧魚市場の跡に近代的なレストランが建っている)
 レイエ川右岸を歩いていると古い建物が目に入ったがそれは大肉市場であった。
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(大肉市場)
 ガイドブックによると、この建物は中世の屋内肉市場で、1406年~1410年にかけて建てられ、ギルドハウスと礼拝堂も併設している。
 レイエ川から離れて私たち夫婦は金曜広場へと歩いたが、そこには大きな銅像が建っていた。
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(ヤーコブ・ファン・アルテフェルデの像)
 ネットで調べてみるとこの像はヤーコブ・ファン・アルテフェルデという人物である。彼は14世紀に毛織物商人として財をなし、百年戦争時のフランドル都市連合の指導者となって活躍した。また、金曜日広場は中世には集会場として利用されており、周囲はギルドハウスなどの歴史的建造物が広場を囲んでいる。
 フリータイムが終わり、私たちはバスでゲントからブリュッセルへと向かった。距離で約56㎞、所要時間は約1時間である。
 ブリュッセルのレストランでの夕食後、添乗員さんの好意で午後7時頃のグランプラスを見学した。
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(グランプラス)
 ブリュッセルでのテロ事件が起こる前は、大勢の観光客でごった返しているグランパレスが、今は閑散とした広場となっていた。
 
 
 
 
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