<   2018年 01月 ( 8 )   > この月の画像一覧

2 農地改革と財閥解体
1)農地改革
 敗戦後の農民運動の発展は、崩壊のきざしをしめす地主制に最後の一撃を与えようとしていた。1945年11月、幣原内閣は、農民運動をおさえて、食料の供出を確保するため、在村地主の所有限度を5町歩(約5ha)とし、小作料は金納とする農地改革草案を作成した。しかし、この案では、全小作地254万町歩のうち95万町歩しか解放できず、徹底した農地改革を求める総司令部は、これに賛成せず小作料の金納性以外は実施されなかった。(第1次農地改革)再検討を指示された政府は、1946年、自作農創設特別措置法と第2次農地調整改正法を成立させた。これにより、地主の所有限度は小作地1町歩、自作地と小作地の合計は3町歩に制限され、これをこえる分は政府が買い上げて、小作農民に安く売り渡すという第2次農地改革が実施された。
 第2次農地改革は1947年に開始され1950年に終了した。その結果、寄生地主制が解体され自作農が創設され、農村の購買力が向上し、経済の活性化がはかられた。しかし、山林や水利権は解放されず、それを持っていた地主は没落をまぬがれて農村では相変わらず支配的な地位を確保した。
2)財閥解体
 総司令部は戦前の労働者の低賃金を問題視し、経済の民主化をはかった。また、日本を再びアメリカの脅威にさせないためにも経済の抑制も兼ねて1945年、総司令部は四大財閥(三井・三菱・住友・安田)の解体を命令した。四大財閥本社は、解体指定時で当時の日本の公称資本総額の18.7%を占める企業を直接に支配し、さらにこれら直系企業が支配する孫会社まで含めると、日本の資本の約4分の1を支配していた。特に、銀行資本では、全国銀行資本の約48%が四大財閥の支配下にあった。
 総司令部は持株会社の解体を要求したため、1946年4月、政府は持株会社整理委員会令を公布し、あらたに23の財閥本社を解体させた。財閥の復活を防ぐため、1947年4月に独占禁止法が公布され、12月には過度経済力集中排除法が施行されたが、米ソの対立が激化するにつれて緩められ、分割を指定された325企業のうち、分割が実施されたのはわずか11社のみであった。
a0226578_10253422.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
次回の第72回日本史講座は、2月10日(土)午後2時より行う予定です。
[PR]
 Ⅱ 日本国憲法と戦後改革
1 日本国憲法の制定
1)憲法改正の経過
 1945(昭和20)年10月、マッカーサーは大日本帝国憲法の抜本的改正を政府に指示した。幣原内閣は憲法改正に消極的であったが、松本蒸治(じょうじ)国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会を設けた。これをきっかけに、多くの憲法構想が政党や民間から発表された。自由党・進歩党・社会党案は国民主権を明確に規定せず、共産党案は天皇制廃止と国民主権を打ち出していた。
 1946年2月に政府は松本案を総司令部に提出したが、帝国憲法の天皇に関する第一条から第四条までは改正を加えず、「天皇ハ神聖」を「天皇ハ至尊(しそん)」といいかえたに過ぎなかった。マッカーサーは、連合国内部の一層の民主化を求める動きをおさえて、アメリカ主導で憲法をつくりたいために、これを拒否した。これに代わり、国民主権、天皇の象徴的地位、戦争放棄をもりこんだマッカーサー草案を示し、これを基礎に草案が作成された。草案は帝国議会で審議されたが、国民主権の不明確さと自衛権が問題となり、部分修正されて日本国憲法は成立し、11月3日に公布され、1947年5月3日に施行された。
a0226578_10343596.jpg
(小学館『日本の歴史31 戦後変革』より)
2)日本国憲法の内容
 日本国憲法では、天皇は象徴とされ、主権は国民にあると規定された。国会が国権の最高機関となり、内閣は国会に対して責任を持つものと規定された。また、国民の権利は基本的人権としておかすことができないものとされ、思想・信条・結社の自由などの自由権、労働者の団結権などの社会権が与えられた。とくに戦争放棄と軍備不保持を定めた第9条は世界に先がけたものとして注目をあびた。
3)新憲法施行にともなう法や制度の改正
 1947年10月に国家公務員法が公布され、公務員は天皇ではなく国民の奉仕者へと役割がかわり、刑法の改正では天皇に対する大逆罪や不敬罪が廃止された。12月の民法の改正では、家族に強い権限を及ぼした戸主権の否定、個人の尊厳、姦通罪の廃止、男女の本質的平等がもりこまれた。同じ月に、国内行政に絶大な権限を持っていた内務省が解体され、自治体警察の設置が決められた。地方自治法も制定され、都道府県知事は選挙で選ばれるようになった。さらに大審院にかわって最高裁判所が設置され、検事局の裁判所からの分離などを含む司法制度の改革が行われた。

[PR]
 第71回日本史講座は、1月27日(土)午後2時より受講者6名で行われました。
6 民主化の波と二・一ゼネスト
1)インフレーションの克服
 戦時中の巨額な軍事費のための国債乱発・物資不足・軍隊からの復員・外地からの引き上げなどによる人口増加で食糧難に加えてインフレーションが激しい勢いで進み、1946年、幣原内閣は金融緊急措置令を出した。従来の紙幣の流通を停止して新紙幣を発行し、現金は一人100円にかぎって新円と交換し、他は預金として封鎖し、預金の現金化を制限したものであったが効果はなかった。生産の拡大をともなわない通貨制限は有効でなく、大衆の生活を苦しめ、現金でしか売らない闇業者のもとに新円が集中して「新円成金」を生み出しただけに終わった。
2)産業の立て直し
 こうした経済危機を打開するために第一次吉田内閣は基礎産業である鉄鋼と石炭の生産に重点を置く傾斜生産方式をとり、次の片山内閣はこれを強化して復興金融金庫から多額の融資をおこなってかなりの効果を上げた。しかし、これと並行して進められた低物価と低賃金政策はインフレーションの進行を抑えることができなかった。さらに融資先をめぐる汚職として昭電疑獄事件が起こり、片山内閣のあとを受けた芦田内閣はこの汚職事件で総辞職した。
3)高まる労働運動・農民組合
 総司令部が出した五大改革指令が国民に伝わると、労働組合や農民組合、民主団体の結成につとめ、地域や職場で生活の再建に取り組んだ。
 大日本産業報国会などの翼賛団体が解散されると、企業ごとに労働組合が結成されていった。1946年後半には、賃上げを求めるために、ストライキや労働者が業務や管理・運営する生産管理闘争がさかんになった。8月に社会党を中心に右派の日本労働組合総同盟(総同盟)が、共産党を中心に左派の全日本産業別労働組合会議(産別会議)が結成された。
 当時官公庁の賃金は民間の45%程度であったため、全官公庁労組共同闘争委員会(共闘)が発足し、13組合、175万人の官公労働者が組織され労働運動は急速に盛り上がった。共闘は公務員の賃上げを求めたが、吉田内閣はこれを拒絶した。そのため、1947年2月1日に官公庁と民間の労働組合の労働者650万人のゼネラル・ストライキ(二・一ゼネスト)を行うことを決定した。しかし、ゼネスト決行前夜、マッカーサーは吉田内閣に命じてこれを中止させた。
a0226578_10415914.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
4)民主化の波
 五大改革指令のもとで女性は社会的な地位向上を求めて活動をはじめ、農村では地主による土地取り上げや強権的な農産物供出に反対し、1946年に日本農民組合が結成された。部落解放運動団体の再建もはかられ、水平社を受け継いだ部落解放全国委員会が結成された。

[PR]
5 政党の結成と戦後初の総選挙
1)政党の結成
 政治活動の自由が保障されると、政党も次々と結成・復活した。保守系の政党としては、日本自由党が旧政友会系を中心として結成されたが、翼賛選挙での非推薦議員が多かった。自由党の結成資金は右翼の児玉誉士夫(こだまよしお)によって提供された。児玉は戦争中に海軍の委嘱で中国の上海で児玉機関をつくり、中国人からの略奪とアヘンによる巨額の金を自由党結成資金につぎ込んだ。
 同じく、保守系の日本進歩党は旧民政党系を中心として結成されたが、翼賛選挙で推薦された議員が多かった。この政党は、幣原喜重郎内閣の与党的な役割を果たしたが、公職追放された議員が多かった。
 一方、戦前の無産政党が統合された片山哲らの日本社会党が結成されるとともに、獄中から釈放された徳田球一らを中心として日本共産党が合法政党として活動を開始した。1946年には共産党幹部の野坂参三の帰国を歓迎する国民大会も開かれた。
2)戦後初の総選挙
 1946年4月、男女20歳以上の国民すべてに選挙権が与えられた戦後初の総選挙が行われ、39人の女性代議士が誕生した。選挙で進歩党は第二党になり、幣原内閣は総辞職し、第一党となった自由党も過半数に達せず、鳩山総裁も公職追放となり組閣できなかった。1か月にわたって内閣が存在しなかったが、ようやく自由党・進歩党の連立による第1次吉田茂内閣が誕生した。
 吉田茂は明治自由党の指導的幹部であった竹内綱(たけのうちつな)の五男で大富豪吉田健三の養子、明治の元勲大久保利通の二男として宮廷政治の実力者であった伯爵牧野伸顕(のぶあき)の女婿、そして大日本帝国の職業外交官として田中儀一内閣の外務次官、日中戦争開始時の駐英大使であった。彼は、むしろ大日本帝国の申し子のような人物であった。(小学館『日本の歴史31 戦後変革』)
a0226578_10393839.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
次回の第71回日本史講座は1月27日(土)午後2時より行う予定です。
[PR]
4 対日占領政策の展開 
1)非軍事化
 1945年9月6日、アメリカのトルーマン大統領は「降伏後における米国の初期対日方針」を承認し、世界の反ファシズムの要求に沿い、日本の非軍事化・民主化を強調した。そのため、総司令部(GHQ)は日本政府に政治・経済・教育・文化などあらゆる分野にわたって改革を要求した。
 総司令部はまず、日本軍の武装解除と軍需産業の生産停止、戦争犯罪容疑者の逮捕、戦争中に指導的な役割を果たした軍人・政治家・実業家らの公職からの追放と右翼団体の解散を命じた。
2)民主化
 さらに総司令部は、天皇制についての自由討論の保障、治安維持法・治安警察法の撤廃、共産党員ら政治犯の釈放・特別警察の廃止などを命じた。しかし、1945年8月に成立した初の皇族内閣である東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は、このような改革指令を受け入れられずに総辞職した。
3)幣原喜重郎内閣
 これに代わって10月に成立した幣原喜重郎内閣は、戦前の協調外交が評価されて組閣されたが、実態は民主化をサボタージュしつつ、時間をかせぐことを目的とした内閣であった。(小学館『日本の歴史 戦後変革』)
 1945年10月、総司令部は、女性の解放・労働組合結成の奨励・学校教育の民主化・専制政治の撤廃・経済機構の民主化を求める五大改革指令を出した。さらに皇室財産を凍結させ、国家と神道との分離の指令を出して、天皇の絶対的な地位を支えてきた経済的・精神的な基盤をなくし、1946年1月には昭和天皇みずから神格化を否定したいわゆる人間宣言が行われた。
a0226578_10452530.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

[PR]
3 東京裁判
1)A級戦犯
 1945年、総司令部は東条英機ら39名を戦争犯罪容疑者(戦犯)として逮捕し、1946年5月、容疑を審理するための極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷した。
 東京裁判にはアジア・太平洋の戦争での戦勝国11か国が参加し、オーストラリア人のウェッブが裁判長となった。裁判では、A級戦犯として起訴された東条英機ら28人の被告が戦争全般に対する指導的役割を果たしたかどうかをめぐって審理されたが、28名のうち、病気と免訴の3人を除き、25名全員が有罪とされた。
 裁判のなかで日本軍による侵略、例えば南京虐殺の実態などが国民の前に明らかになり、1948年12月に東条英機ら7名が絞首刑となった。
2)B・C級戦犯
 戦時中の捕虜・抑留者に対する虐待行為・非人道的残虐行為などに直接関係した人々、ならびにこれらの行為を指揮命令した人々に対する裁判は、B・C級戦犯として、連合各国軍の手で各地で行われた。
 B・C級戦犯裁判は、戦後の混乱期に現地で、各国軍がばらばらに行ったために、十分な審理を尽くされず、特に被告とされた日本人に、弁護の機会を十分に与えられず、無実の身で有罪とされ処刑された者もかなりあった。また、日本軍の上官がいっさいの犯罪を下級者になすりつけた事例が多かった。上級者ほど特権をふるうが責任は逃れるという日本の官僚制の特質は軍隊の中にも強く貫かれていた。そのために、上官の罪を着せられて処刑された下級者も多かった。下級者の中には、朝鮮人や台湾出身者がおり、彼らは軍隊内でも差別され、上官の命令で捕虜や住民に対する不法な残虐行為を行ったとして処刑された。
a0226578_10363132.jpg
(小学館『日本の歴史31 戦後変革』)

[PR]

2 日本の占領
1)日本の占領
  1945年8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサーが来日し、9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリ号の甲板上で連合国と日本政府との間で降伏文書の調印式が行われた。この結果、日本の主権が及ぶ範囲は北海道・本州・四国・九州と、連合国の定める諸小島にかぎられ、台湾・澎湖諸島は中国に返還され、朝鮮は日本の植民地から離れ、南洋諸島はアメリカの信託統治領となった。沖縄・奄美・小笠原の各諸島に対する日本の行政権は停止されてアメリカ軍の軍政下に置かれ、沖縄は琉球と呼ぶようになり、千島列島・南樺太はソ連に占領された。
2)占領方法
a0226578_10460585.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 私は高校生に、なぜ日本人には外国軍に占領されたという意識がないのかという発問をしたが、生徒は答えられなかった。しかし、今回、受講者から「間接統治だったから」という正解が返ってきたが、受講者の中にはよく勉強されている方がおられる。アメリカが直接統治をおこなわなかった理由は、日本の敗戦がアメリカの予想よりも早かったため、直接統治を行う準備が整っていなかったことと、間接統治の方がよりスムーズに占領政策を遂行できると考えたからである。 連合国は、極東委員会を占領政策の最高決定機関としてワシントンに置いた。はじめ11か国であったが、のちビルマとパキスタンが加わった。また、実際に占領政策を指令する執行機関として、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)を東京に置いた。また、米・英・中・ソで構成されたGHQの諮問機関として対日理事会が東京に置かれた。アメリカ政府とマッカーサーは、天皇を戦犯として裁判にかけると占領政策が円滑に実現できなくなると判断し、国際的に批判があったが天皇を訴追しなかった。 
[PR]
 皆様、明けましておめでとうございます。
第70回日本史講座は、1月13日(土)午後2時より、受講者6名で行われました。

 第22章 民主化と戦後改革 
 Ⅰ 占領と民主化
1 戦後世界の開始とアジア
1)戦争の被害
 1945年8月15日、第二次世界大戦は6000万人もの死者を出し、日本の敗戦で終わった。この戦争で最大の犠牲を払ったのはソ連で、死者は約2000万人であった。その次に大きな被害を被ったのは、中国で、死者・行方不明者の数は1000万人から1300万人以上にも達し、流亡の難民と化した人口は1億人にも達すると考えられている。日本が攻撃し、占領し、支配した東アジアの国々の被害を人数だけに限って推計すると、ベトナムで200万人、インドネシアで200万人、フィリピンで100万人、日本が戦域とした地域全体で1882万人という推計が出されている。一方、日本の死者の総計が約330万と推定されており、日本が戦争でアジア諸国民に強いた犠牲の大きさにおののきを感じる。(小学館『日本の歴史31 戦後変革』より)しかし、私たち日本人の多くは戦争の認識といえば、ほとんどが空襲や原爆などの被害の面が圧倒的に強く、加害に対する認識が非常に弱い。それはなぜだろうかと受講者に質問すると、「民衆には加害についての情報が知らされなかったから」という答えであった。その答えは正しいが、それとともに、戦後の政治を担った政治家たちは、実は戦前・戦中の政治家とほとんど変わっていなかったということに根本的な原因があると私は考える。だから戦争の加害についてはできるだけ触れようとしない。それどころか保守的な政治家のなかには戦争を美化したり、中国や朝鮮人を軽蔑する発言が絶えずおこなわれているのである。
2)戦後体制のはじまり
 戦争中、アメリカとソ連は体制の違いをこえてファシズムを共同の敵として戦い、1945年10月、米・英・ソが中心となって、国際連盟にかわる国際平和維持機構として国際連合が発足した。また、1944年、アメリカなど資本主義諸国はブレトンーウッズで会議を開き、ファシズムをもたらしたブロック経済を創り出さないために、戦後の国際通貨制度の確立と貿易の自由化をはかるための機関として国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行・IBRD)の設置を決めた。
2)アジア諸国の独立と宗主国との戦い
a0226578_11071261.jpg
(三省堂「日本史B」より)
 アジア各地では、日本の敗戦が決まると、民族の解放と独立を求める民族解放運動が起こった。朝鮮では解放された喜びに沸き、独立を訴えるハングルのビラや民族衣装のチマ・チョゴリの姿が見られた。しかし、米ソ両軍が日本軍の武装解除のために北緯38度線を境に進駐したため、分断される原因がつくられた。中国では1946年に国民党と共産党との間で内戦が再開した。インドネシアではスカルノが独立宣言し、宗主国であったオランダ軍と戦った。また、ホーチミンがヴェトナム民主共和国の独立を宣言するとフランスが植民地を取り戻そうと軍隊を派遣したため戦いとなった。その他、インド・セイロン(スリランカ)・ビルマ(ミャンマー)・マラヤ連邦(マレーシア)・シンガポール・パキスタンがイギリスから独立し、フィリピンは1946年にアメリカから独立した。


[PR]