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 第73回日本史講座は2月24日(土)午後2時より、受講者8名で行われました。
4 朝鮮戦争と再軍備
1)朝鮮戦争
 ヤルタ協定にもとづいてソ連軍が満州から朝鮮半島北部に侵攻を開始したが、アメリカはソ連軍が朝鮮半島を単独で占領する事態を防ぐために、ソ連に対し半島の北緯38度線で分割占領する案を提示した。38度線を境界線とした理由については諸説あるが、朝鮮半島の首都をアメリカ軍の占領区域に設定することが望ましいと考えており、38度線は朝鮮半島をちょうど二分する上に、ソウルが南半分に含まれるからだというのが最も有力な説である。朝鮮北部には、抗日パルチザンの伝説的英雄である金日成の存在が大きく、ソ連軍は間接統治という形式をとったが、南部には「朝鮮建国準備委員会」などが設置されたが、政治的にも不安定な状態にあり、アメリカ軍は直接統治をおこない、アメリカに亡命していた反共産主義者の李承晩をかつぎ出した。1948年8月、アメリカは李承晩を大統領とする大韓民国を建国させると、北では9月に金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和が成立した。しかし、李承晩政権は政治的にも経済的にも不安定であり、軍事的な面でも圧倒的に北が優勢であった。このような状況の中で、金日成はスターリンの許可を得て統一戦争を開始するのである。
 1950年6月、北朝鮮軍が38度線を突破して韓国を攻撃したが、これが朝鮮戦争の始まりである。アメリカはすぐに国連安全保障理事会を開き、北朝鮮軍の行動を侵略行為として、軍事制裁と国連軍派遣を決定した。なぜソ連は拒否権を行使しなかったのかというと、当時、ソ連は中国代表権問題で安全保障理事会を欠席していたため拒否権を行使できなかったのである。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)日本の再軍備
 朝鮮戦争の勃発は日本に大きな影響を与えた。占領軍を朝鮮に派遣したマッカーサーは、1950年7月、その空白をうめるために、7万5000人規模の警察予備隊の設立と海上保安庁の人員8000人増を吉田首相に指示した。また、朝鮮戦争勃発の翌日、レッド・パージが開始され、2万人以上の共産党員や同調者が職場を追放され、解雇された。一方、それとは逆に、公職追放解除が実施された。1950年10月に1万人の追放を解除し、また警察予備隊幹部を確保するために、太平洋戦争開戦後に軍学校に入学した陸海軍の正規将校3250人の追放を解除していたが、その後続々と追放が解除され、その総数は20万人以上に達した。政界・財界には敗戦前の大物が返り咲き、旧軍人は予備隊の幹部将校となり、特高警察官も反共活動の経験を買われて公職に復活し、保守勢力は一段と補強された。
3)朝鮮特需
 朝鮮戦争は、アメリカ軍による物資・サービス調達需要(特需)を生み出し、これが刺激となって、繊維・機械・金属の生産と輸出が増加し、日本経済は一転して好況に転じた。朝鮮戦争による日本の再軍備開始は、経済界の中に軍事調達への期待を高め、解体をまぬかれた旧財閥系の企業からは軍事力の整備を求める声が上がるようになった。


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3 ドッジ・ラインと占領政策の変更
1)ドッジ・ライン
 経済安定9原則を具体化するために来日したアメリカのドッジ公使は、総司令部経済財政最高顧問として、1949年度予算の編成を自ら行って日本政府に押し付けた。この予算は赤字歳出を全く許さない超均衡予算であった。ドッジは記者会見で、「日本の経済は両足を地につけていず、竹馬に乗っているようなものだ。竹馬の片脚はアメリカの援助、他方は国内的な補助金の機構である。竹馬の脚をあまり高くしすぎると転んで首を折る危険がある。今ただちに縮めることが必要だ」と語った。(小学館「日本の歴史31 戦後変革」より)彼は、企業の国際競争力を高めるためには大規模な人員削減もやむをえないという基本方針で、これをドッジ・ラインと呼ばれた。そして、政府による復興金融金庫への融資停止、補助金・失業対策費の削減、徴税の強化などによって、赤字であった政府財政をいっきょに黒字に転換させた。この時、1ドル=360円という固定相場制が決定され、日本は経済的にもアメリカと強く結びつくことになった。
2)シャウプ勧告
 さらにアメリカの経済学者シャウプは、国民への課税を強化する一方、企業の発展を促すために企業にかける法人税を軽くするという、租税制度の改革を勧告した。この勧告は、所得税などの直接税中心の徹底化、資本蓄積のための減税措置、地方税の独立、補助金をやめて平衡交付金制度に改める内容であったが、権限をともなう行政事務の市町村への再配分についての勧告は軽視された。
3)労働運動の激化と占領政策の変更
 この結果、インフレーションはおさまったが、行財政の整理と企業整理によって、企業倒産が増えて大量の失業者が生まれ、不況が日本社会をおおった。この不況はドッジ不況と呼ばれ、日経平均株価は、85,25円となり、史上最安値を記録した。さらに労働者の雇用条件を悪化させたため、国鉄労働組合や民間の労働組合などで激しい反対闘争が起こった。
 しかし1949年の下山事件・三鷹事件・松川事件が組合活動家らの犯行と宣言され、これらの事件を利用して、10万人にのぼる国鉄などの人員整理が強行されたため、反対闘争は挫折をよぎなくされた。これらの事件の背景には総司令部が関わっていたのではないかという意見が、松本清張の「日本の黒い霧」などに出されている。私は、松川事件で死刑囚となった人物の講演を聞いたことがある。彼は犯行の当日には警察に留置されており、アリバイがあることは警察が一番よく知っていたはずであるが、警察はそのことを一切秘密にしていた。幸い松川事件は全員無罪となったが、その話を聞いて私は警察権力の恐ろしさを思い知った。
 また、事件以後、共産党員らを官公庁から排除するレッド・パージが行われ、労総組合も総司令部の援助を受けた反共勢力が主流となり、1950年に日本労働組合総評議会(総評)が結成された。一方、この頃から公職追放されていた政治家や官僚らが次々と追放を解除され、政界に復帰していった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 次回の第73回日本史講座は、2月24日(土)午後2時より行う予定です。
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2 占領政策の転換
1)政策転換の背景
 中国共産党の優勢ぶりは、中国をアジアの拠点と考えていたアメリカに政策変更を迫る出来事となった。そのため、アメリカは、日本の民主化を促すよりも、早急に復興させて、政治的に安定した資本主義国となることを望むようになった。そのため、非軍事化政策をやめて独占資本主義を積極的に再建する政策に転換しようとした。
2)対日賠償の軽減と企業分割の緩和
 1948年、来日したドレーパー米陸軍次官らは、対日賠償を軽くし、過度経済力集中排除法による企業分割をゆるめるよう、マッカーサーに進言した。その結果、軍事施設などの生産施設の賠償取立て中止命令が出され、東アジアの諸民族は、日本から受けた被害を日本につぐなわせる国際的保障を失った。この結果、排除法の適用から銀行が除外され、最終的には日本製鉄会社・三菱重工業など11社が企業分割された。このような情勢に勇気づけられた日本の独占資本は、1948年4月、日本経営者団体連盟(日経連)を創設した。
3)経済安定9原則
 1948年、芦田均内閣はマッカーサー書簡にもとづいて、公務員の争議権と団体交渉権を否認する政令201号を施行し、さらにマッカーサーは第2次吉田内閣に対して日本経済の復興のための経済安定9原則の実施を命じた。9原則の内容は、①財政の均衡、②徴税の強化促進、③融資制限、④賃金の安定、⑤価格統制の強化、⑥貿易為替管理の改善、⑦輸出の振興、⑧鉱工業生産の増強、⑨食料供給の能率化、であった。これは日本経済の自立と対日援助軽減を目指すことを目的としたものである。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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 第23章 二つの世界と日本
 Ⅱ 対日政策の転換と朝鮮戦争
1 冷戦のはじまり
1)西側陣営の動き
 第二次世界大戦後、ソ連の圧力で東ヨーロッパ地域に社会主義国が成立するとともに、西ヨーロッパ諸国でも反ファシズム闘争で活躍した共産党が政権に参加する政府が成立した。このような状況の中で、アメリカとソ連との対立が深まっていった。
 1947年3月、トルーマン米大統領は、「反ソ反共政策、原爆生産設備の大増強、軍事政策の強化」を訴え、アメリカの安全のために全世界の自由諸国民を守るという、トルーマン・ドクトリンを宣言し、世界的な軍事基地網でソ連を包囲する「封じ込め政策」をとった。戦場となって荒廃した西ヨーロッパ諸国には、反共政策をとることを条件として経済援助をおこなうというマーシャルプランが立案され、ベルギー、フランス、イタリアで共産党は政府から追われた。アメリカ国内では「赤狩り」旋風が吹き荒れ、「喜劇の王様」チャップリンでさえもが迫害された。さらにアメリカは、西ヨーロッパ諸国との間に1949年4月、北大西洋条約機構(NATO)という反共軍事同盟を成立させた。
2)東側陣営の動き
 このようなアメリカの動きに対抗して、1947年にソ連と東欧の共産党の連絡組織であるコミンフォルムを結成するとともに、1949年には、ソ連と東欧諸国は東ヨーロッパ経済相互援助会議(コメコン)を結成し、社会主義国間の経済協力機構を設置した。
3)分断国家の成立
 米ソ対立は連合国が占領していたドイツや朝鮮におよび、ドイツではドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)に、朝鮮半島では大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)にそれぞれ資本主義・社会主義という異なる体制に分断された。
4)中華人民共和国の成立
 中国では日本軍の降伏後、国民政府と共産党の対立は激しくなった。アメリカは、戦後のアジアの安定の重心を中国にもとめ、国共調停にのりだした。ソ連は、国民政府との間に中ソ友好同盟条約を結んでいた。アメリカの仲介で国共合作政府の樹立という合意が成立し、憲法草案も採択されていたが、国民党の右派が主導権を握って憲法草案に反対し、再び武力衝突がはじまり、戦いは中国全土に広まった。内戦は当初、最新式のアメリカ軍式装備をし、大兵力を有する国民政府軍に有利であった。しかし、国民政府の腐敗と無能は民衆の生活を破綻させ、民衆の離反をまねき、軍隊の士気も急速に衰えた。アメリカは、国民政府に膨大な経済援助と軍事援助をつぎこんだが、むだであった。中国共産党は、土地改革をおこない、農民大衆の支持を強めて力をたくわえ、ついに内戦に勝利した。1949年に毛沢東を主席とする中華人民共和国が建国され、国民党は台湾へ逃れて台北に首都を移した。
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  第72回日本史講座は,2月10日(土)午後2時より受講者6名で行われました。
3 労働改革と教育の民主化
1)労働三法の成立
 1945年10月に総司令部が出した五大改革指令には労働組合の結成奨励がある。これに基づき1945年12月に労働者の団結と団体行動を保障する労働組合法が制定され、翌年3月に施行された。さらに1946年9月に労働争議の仲裁・斡旋(あっせん)のための労働関係調整法が制定された。また、1947年には、労働者保護のために、8時間労働制・週休制・児童の就業禁止などの労働条件の最低基準を定めた労働基準法が公布され、監督機関として労働基準局・労働基準監督局が設けられた。
2)教育の民主化
 民主化の波は教育機関にもおよんだ。総司令部も軍国主義を根本から断ち切るために教育改革を行う必要性を認め、1946年にアメリカ教育使節団の来日を要請した。使節団は、東京帝国大学総長の南原繁(なんばらしげる)を委員長とする教育家委員会の意見や要望をうけ、小学校6年制・中学校3年制を義務教育とする六・三制や、教育の地方分権化などを内容とする報告書を出した。1946年8月に内閣に教育刷新委員会がつくられ、1947年、戦後日本の民主教育制度を定めた学校教育法が公布され、4月から六・三制が実施され新制中学校が発足した。さらに同年、教育基本法が公布され、平和と民主主義の根底は教育にあるとの理想をかかげ、教育の機会均等、男女共学、教育に対する公権力の不当な介入の禁止などが盛り込まれた。1948年には各都道府県と市町村に公選による教育委員会が設置された。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3)教育勅語の失効
 戦前の教育の根本であった教育勅語は、1946年10月に、「教育勅語奉読(ほうどく)の廃止」という文部省の通達が出ていた。そして、参議院文教委員会での討論では次のような意見が出されていた。「国民には、まず第一に、教育勅語というのはいかに有害であったかということをはっきりと示すことが必要です。何かの事情で今まではあったが、最近なくなったというような受け身的気持ちで国民が考えてはならない。あるいは命令によって廃止されたと考えてもいけないと思います。」(羽仁五郎(無所属)「教育勅語は、ある意味では法律以上にわれわれの精神生活までしばってきました。教員が教育勅語によってどんなに道徳に縛られていたか・…火災のとき勅語謄本をもちださなかったために、やめさせられ生活権を奪われたということもあったのであります。」岩間正男(無所属)総じて意見は、国民の意識のなかに教育勅語が残っている。そういう事実があったらそれをぬぐいさろうというもので、結局、衆参両院でそれぞれの意思を表明することになり、1890年10月30日に出された教育勅語は、60年の歴史を閉じたのである。((ほるぷ出版 「日本の歴史」より)
 最近になって、再び教育勅語を礼賛する大臣が現れたが、日本の歴史を学んでほしいものだ。

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