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4 日韓基本条約・ヴェトナム戦争と日本
1)日韓基本条約
 1960年代に入ると、日本は賠償事業を通して経済進出をはかった東南アジア諸国へ、新たに経済援助や借款の供与を行って輸出を拡大していった。1961年、池田首相はインドなどの4か国を訪問し、1962年に政府間で経済援助と借款の供与を取り決め、その額を急増させていった。
 韓国との間では、1951年以来、国交正常化のための日韓交渉が続けられてきたが、交渉は難航していた。それは日本の謝罪・賠償問題さらに李承晩ライン(リーライン)とよばれる問題があった。リーラインとは韓国初代大統領・李承晩が周辺諸国との間に設定した海洋境界線のことである。アメリカは韓国政府にリーラインを認めることはできないと勧告したが、韓国政府はこれを無視し、日韓条約が締結されるまで、日本の漁船はのべ328隻、漁師3929人が拘束された。さらに領土帰属問題(日本名は竹島、韓国名は独島)、さらに在日韓国人の法的地位問題で交渉は長期化した。
 アメリカの東アジア政策での要請もあり、また1961年に軍人の朴正煕(ぼくせいき)がクーデターによって政権をにぎり、工業化を行って経済成長を進める方針を打ち出すと、交渉は一挙に進んだ。日韓両国では激しい反対運動が広がるなか、1965年に調印し国交が結ばれた。日本では、すでにヴェトナム派兵を決めていた韓国政府との国交正常化は、日・韓・米の軍事的関係を強化すること、南北分断をを恒久化することなどから反対運動が展開された。一方、韓国では、謝罪・賠償はなく、国家間の賠償・補償問題は解決済みとされたことにより強い反発があった。この条約による協定で、韓国が対日賠償請求権を放棄する代わりに、日本が総額8億ドル以上の資金を提供することが決められ、東南アジアと同じように日本企業の韓国進出が進むことになった。
2)ヴェトナム戦争と日本
 1965年、アメリカは南北間で対立が続いていたヴェトナムに本格介入した。さらにタイなどの東南アジア諸国や韓国などは軍隊を派遣し、周辺諸国はアメリカ軍の拠点になるなど周辺諸国を巻き込む戦争となり、これらのアジア諸国を経済的に支えることが日本に求められるようになった。
 佐藤内閣は、アメリカのヴェトナム介入を支持し、積極的な支援をはかった。また、1965年におこった不況で終わるかに見えた高度経済成長は、一挙に輸出を拡大し、いち早く立ち直った。
 しかし、ヴェトナム戦争と在日米軍基地とが深いかかわりをもったために政治問題化し、政党や労働組合の枠を超えたヴェトナム反戦運動が全国に広がった。なかでも沖縄では、B52戦略爆撃機が北ヴェトナム爆撃に向かったり、海兵隊も出撃していったため、出撃基地として基地問題が深刻化した。このため、基地を撤去し日本復帰を求める祖国復帰運動が広がっていった。そして政府間交渉の結果、1971年、沖縄返還協定が締結され、1972年に沖縄の日本復帰を実現した。しかし、日本政府は1967年に核兵器を「つくらず・もたず・もちこませず」という非核三原則を宣言していたが、返還にあたって、沖縄の嘉手納基地への核持ちこみが明らかとなり問題とされた。また、返還後も米軍基地は残されたままであり、米兵による少女暴行事件や米軍機の墜落事故など沖縄住民の犠牲は今も深刻である。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 第76回日本史講座は、4月14日(土)午後2時より行う予定です。

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3 農業基本法と開放経済体制への移行
1)農業基本法
 池田内閣の所得倍増政策は、農村にもおよんでいった。政府は、食糧管理制度のもと、補助金を投入して生産者米価を毎年引き上げていったため、消費者米価を上回るほどになった。その結果、米の供給過剰と食糧管理特別会計の赤字が深刻になり、1970年度から減反政策がはじまった。
 また、1961年には農業の近代化をすすめるための農業基本法が制定され、農業の近代化と農業生産性の向上、所得の増加をめざした。この結果、農家の所得水準は上昇し、地域間の格差は小さくなっていったが、兼業農家が増え、「三ちゃん(母ちゃん・じいちゃん・ばあちゃん)農業」が増加していった。
2)開放経済体制への移行
 高度経済成長政策は、貿易と資本を自由化して開放経済体制に移行し、先進国として世界経済に加わることをめざした政策でもあったが、それを可能にしたのは、1ドル360円という円安による貿易黒字がその背景にあった。
 日本は1963年にGATT(関税及び貿易に関する一般協定)11条国へ移行したが、それは国際収支を理由に輸出入の数量制限を行うことを禁止しており、貿易の自由化をめざしたものである。さらに1964年にはIMF(国際通貨基金)8条国へ移行したが、それは国際収支の赤字を理由に為替制限ができないことで、為替の自由化をめざしたものである。同年、日本はOECD(経済協力開発機構)に加盟し、資本の自由化をめざした。そして同年、日本はアジア初のオリンピック東京大会を開催するとともに、オリンピックにあわせて東海道新幹線を開通するなど、日本の先進国の仲間入りを印象付けた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 

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 第75回日本史講座は、3月24日(土)午後2時より受講者7名で行われました。

2 経済成長優先の政治
1)池田内閣の高度経済政策
 憲法改正や自衛力強化を前面に出した岸内閣は、1960年に安保条約を改定して退陣した。かわって首相となった池田勇人(はやと)は、以前、吉田内閣の大蔵大臣の時に「中小企業の一部倒産もやむおえない」や「貧乏人は麦を食え」といった発言をしたとして、新聞社などから反庶民的・高圧的な姿勢を批判されたことがあった。そのため、「低姿勢」「寛容と忍耐」をかかげ、経済優先の政策を推し進めた。
 1960年、第2次池田内閣は国民所得倍増計画を閣議決定し、1961年国民皆(かい)保険・皆年金が実現された。1962年には新産業都市建設促進法が施行され、1963年には13の新産業都市と6か所の工業整備特別地域が指定され、全国的な重化学工業化がはかられた。1956年から1960年の第2次鉄鋼合理化計画によって、臨海地域に新鋭の銑鋼(せんこう)一貫製鉄所の建設がすすめられた。また、石炭から石油へのエネルギー転換にともなって、太平洋ベルト地帯に巨大な石油化学コンビナートが建設されていった。
2)企業の技術革新
 企業は、急速な技術革新を実現しながら生産性をあげていった。そして、そのために行われる設備投資がさらに設備投資をよぶというようにして、急速な高度経済成長が実現されていった。技術革新は大企業だけではなく、中小企業でも行われ、家庭用電化製品の普及に貢献した松下幸之助の松下電気工業や、オートバイの国産化をめざした本田宗一郎の本田技研工業、世界に先がけてトランジスターラジオを製品化した井深大(いぶかまさる)・盛田昭夫の東京通信工業(のちのソニー)などは急成長をとげて世界的な大企業となった。
3)高度経済成長の時代
 1955年から約10年間、経済成長率が平均10%を上回ったことをうけて高度経済成長の時代とよぶ。1955年からの神武景気が高度経済成長の幕開けとなり、続いて岩戸景気、さらにオリンピック景気そして1965年から70年の長期にわたるいざなぎ景気と続いた。それが可能となった背景には、1ドルが360円と円安の固定相場制であったこと。今と比べて若い労働人口が豊富にあったこと。日本が戦争に巻き込まれることもなく、ヴェトナム戦争などの特需があったこと。エネルギー政策の転換が進められたこと。戦後ゼロからの出発で、新しい技術を積極的に導入することができたことなどがあげられる。
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(東京書籍「図説日本史」より) 

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 第24章 高度経済成長と国際社会
 Ⅰ 高度経済成長
1 日米安保条約の改定
1)条約の改定
 1960年代に入ると、日本の政治と経済の仕組みは、日米関係を中心とする国際関係の転換とともに大きく変化した。転換点となったのは、1960年1月19日に岸首相がワシントンで調印した日米安全保障条約(新安保条約)であった。
 新条約では、日本の自立性を認める条項が入る一方で、日本の防衛が日米共同責任とされ、在日米軍が極東地域の戦略に組み込まれることが懸念された。1960年5月、警官隊500名が衆議院に待機するなか、50日間の会期延長と条約改定の批准が強行採決されると、安保改定阻止国民会議を中心に反対運動が急速に盛り上がっていった。
2)60年安保闘争
 強行採決が行われると連日のデモが国会を包囲し、東京の都心部をうずめた。そして1960年6月15日、参議院では、新安保条約の批准採決が行われようとしていた。国民会議は、第18次統一行動を行い、労働組合のストライキを含み、最大規模の動員によって、国会を包囲しようと決めており、そこで事件が起こった。この事件について大江氏によると、「きっかけをつくったのは、右翼だった。夕刻、児玉誉士夫配下の維新行動隊が、トラックで、国会裏の女性の多い新劇人会議と、子供づれの主婦のデモの隊列につっこみ、あらんかぎりの暴行をはたらいた。…すでに国会を二周した全学連主流派のデモの隊列は国会南通用門付近でこの惨事の報をきいた。…そこに、極左指導部の国会突入戦術が作用した。夕闇の国会構内に約700人の学生たちがはいると、警官隊は袋の口をとじ、狼のように学生におそいかかった。一人の女子学生が殺され、重傷者は数知れなかった。…岸内閣は、深夜の閣議をひらき、『国際共産主義の企図に踊らされつつある計画的行動にほかならない』という政府声明を発表した。この事件はだれの計画的行動であったのか。事件の発端は右翼による挑発と、この挑発を黙認した警察によってつくられた。挑発にのったのは、この挑発を好機として国会突入戦術を実行に移した全学連主流派の指導部であった。そして、のちになって、このときの全学連主流派の最高指導者の一人は、TBS放送で、このとき、かれらが反共右翼の大立者(おおだてもの)の一人田中清玄(せいげん)から金をもらい、警視庁首脳部ともしばしば会って談合していた事実を告白した。判明している事実はそこまでであるが、このことから、この事件は、かつての松川事件などとおなじように、国民の政府批判の目を、『国際共産主義の企図に踊らされつつある計画的行動』にそらせ、反対運動を分裂させ、孤立させるための謀略ではなかったかという疑惑さえでてくる。」(小学館「日本の歴史31」)と指摘している。
 激しい反対闘争によって、予定されていたアイゼンハワー米大統領の訪日は中止に追い込まれ、条約は参議院で承認できないまま、憲法61条により30日で自然承認され、その直後に第2次岸内閣は総辞職した。この安保闘争の歴史的意義はどこにあるのか、大江氏によると、「これ以後の歴代自民党内閣の首相が憲法改正を口にすることがタブーとなり、自衛隊の海外派兵や核武装も公然とは口にできなくなったのである。」と指摘している。
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(東京書籍「図説日本史」より) 
 第75回日本史講座は3月24日(土)午後2時より行う予定です。
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Ⅲ 経済の復興と発展
1 高度経済成長政策
 日本経済は急速に復興したが、1953年に朝鮮戦争が休戦すると、朝鮮特需で経済復興を果たした日本経済は不況におちいった。
 1955年、経済界は生産性本部をまた政府も経済企画庁を設けて、新たな経済成長に向けての取り組みを開始した。政府は、『経済白書』で、「もはや戦後ではない」と宣言し、重化学工業の育成と合理化を進めて、国際競争力を強化するという高度経済成長政策を打ち出した。これを受けて、大企業は、合理化と最新設備への投資を積極的に行っていった。こうした大企業には、東南アジア各国に道路建設・鉄道敷設・水力発電所建設などで支払うことになった政府の賠償事業が任せられたため、大企業は長期にわたる事業をとおして東南アジア進出ができるようになった。
 一方、合理化に反対して自動車・電機・石炭などの基幹産業では大規模な労働争議が起こったが、なかでも、石炭から石油へのエネルギー政策の転換によって、厳しい合理化を迫られた炭鉱の争議は激しく、1959年から1960年にかけて起こった福岡県の三井三池争議は全国から支援を受けて闘われた。この闘争は会社側が1214名の指名解雇を通告し、その中には、組合活動家たち約300人が含まれていた。これに対し労組は全山ストライキに入り、いわゆる「三池争議」が始まった。闘争は長びいていき、会社側のてこ入れによって第2組合がつくられ、暴力団や警察隊を投入してストライキを崩そうとした。三池の闘いはしだいに全国の労働者の中に広まり、安保闘争と強く結びついていった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2 テレビの誕生と大衆文化
1)テレビの誕生
 産業界が民間向け生産を重視し始めると、電気器具などの耐久消費財の大量生産が進み、テレビ・洗濯機・冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれて、家庭になくてはならないものとして普及した。
 テレビは1953年1月、シャープが国産第1号を17万5000円で発売したが、当時の大卒の初任給が5000円だから給料の35倍の値段であった。2月にNHKと民間テレビ局が放送を開始した。テレビをとおして、プロレスの力道山、プロ野球の長嶋茂雄、歌手の美空ひばりなどの大スターが誕生した。
2)戦後の文学
  文学の世界では、安岡正太郎・吉行淳之介・阿川弘之・遠藤周作らが戦後派文学の第三の新人と呼ばれた。また、三島由紀夫は、敗戦による挫折体験から出発し独特の文学をえがき続けた。一方、新聞や大衆雑誌には、純文学に社会性や通俗性と娯楽性を加えた、石坂洋次郎や大佛次郎(おさらぎじろう)・獅子文六・吉川英治らの中間小説と呼ばれる作品が掲載され、小説ブームをつくった。

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6 岸内閣
1)岸内閣の成立
 1956年、鳩山内閣は日ソ国交回復と日本の国連加盟が実現すると病気のため退陣し、石橋湛山(たんざん)内閣が成立した。しかし、組閣後わずか1か月で病気でたおれて辞職し、岸信介が後継首相となった。彼は旧満州国の植民地支配の実力者として君臨し、東条内閣の閣僚として宣戦の詔書に署名したA級戦犯であったが、日本は戦後わずか12年目に、彼を首相の座に就くことを許してしまったのである。
2)逆コースの時代へ
 戦後の日本は民主的な社会をめざしたが、岸内閣の政策は民主化とは逆の政策を実施していった。
 岸首相は1957年5月に東南アジア6か国を訪問した。太平洋戦争中、日本の侵略で迷惑をかけたことのお詫びと、親善を深めることがその表向きの理由であったが、日本経済の東南アジア進出の準備工作がその大きな目的であった。東南アジア各国の賠償要求額は著しく高かったが、アジアでの日本の役割を重視するアメリカの要求で軽減され、その多くは道路建設や水力発電所建設などで支払うことになった。
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(三省堂「日本史B」より)
 国内では、政府は平和運動や反基地闘争に対して強い姿勢で臨んだ。なかでも、地域と強く結びついて平和運動をおこなっていた日教組への規制を強めた。1956年に教育委員会を公選制から首長による任命制にかえ、同時に、教職員への勤務評定制度の導入を決定していたが、岸内閣は1958年から全国で実施しようとしたため、激しい反対運動が広がった。さらに、警察官の権限を拡大するために国会に提出していた警察官職務執行法(警職法)の改正案が、警職法反対国民会議などの広範な国民の反対運動にあって改正を断念した。
 こうした対立のなかで、岸内閣が同時に進めていた安保条約の改定に対して、アメリカが行う戦争に日本が巻き込まれるのではないかという恐れが国民の間に広がった。1959年には社会党・共産党や労働組合、学生、市民ら多くの国民が参加して安保改定阻止国民会議が結成され、安保反対運動が急速に盛り上がっていった。

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5 第三世界の登場と平和運動
1)アジア・アフリカの動き
 1950年代半ばになると、民族解放運動を経て独立を果たした国々を中心に、厳しさを増す米ソ対立のなかで、平和共存を望む運動が世界各地で始まった。
 1954年、ジュネーヴでインドシナ戦争の休戦協定が成立すると、領土問題で対立していた中国の周恩来首相とインドのネルー首相は、主権尊重・領土不可侵・平等互恵・内政不干渉・平和共存を内容とする平和五原則を発表した。1955年にはインドネシアのバンドンで29か国が参加したアジア・アフリカ会議が開かれ、反植民地主義・民族主権・人種差別の撤廃などのバンドン十原則が採択された。これらの国々は米ソ両陣営のいずれにも属さない非同盟・中立の第三世界として、国際社会で大きな力を持つようになった。
2)平和に対する動き
 日本でも、1954年3月1日、日本漁船の第五福竜丸が、マーシャル群島のビキニ環礁付近でアメリカの水爆実験で被爆し、乗組員の久保山愛吉氏が死亡するという事件が起こった。この事件をきっかけに東京都杉並区の主婦らが始めた原水爆禁止署名運動は、労働組合などを巻き込んで大きく広がり、1955年に全世界で約6億7000万人の署名を達成して、第1回原水爆禁止世界大会が広島で開かれるなど、平和運動は盛り上がった。また、これと強く結びついて、1955年から日本母親大会が開かれるようになった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 この頃、ビキニという水着が出てきたが、それはこの水爆実験に由来すると思っていたがそれは間違いで、真実は1946年7月、アメリカの原爆実験がビキニで行われ人々を驚かせたので、7月5日にフランスのルイ・レアールが発表した水着を人を驚かせる水着という意味でビキニと命名したのである。

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 第74回日本史講座は3月10日(土)午後2時より、受講者8名で行われました。
4 55年体制と国際社会への復帰
1)55年体制
 第1次鳩山内閣は憲法改正をおこなおうとしたが、講和問題をめぐって左右両派に分裂していた社会党内に共同で対抗しようとする機運が生まれ、1955年の総選挙で3分の1の議席を確保して憲法改正をはばみ、社会党は再統一した。この動きは保守政党に影響を及ぼし、強力な保守政党の成立をのぞむ経済界の要請を受けて、民主党と自由党は合同して自由民主党を結成し、1956年、第2次内閣を組織した鳩山一郎が初代総裁に就任した。こうして、1993年の細川非自民内閣誕生まで続く保守と革新の二大政党が対抗する55年体制が生まれた。しかし、二大政党とよんでいるが、実際の議席数比からみると、保守と革新は2対1であった。
2)国際社会への復帰
 第3次鳩山内閣は、講和条約を結んでいないソ連との国交回復交渉をすすめたが難航し、1956年、領土問題を棚上げにして日ソ国交回復を実現した。日ソ共同宣言には、戦争状態の終結、漁業条約発効、抑留者の送還、国連加盟の支持などが盛り込まれた。千島列島は、ヤルタ会談で密約があり、講和条約締結時にはソ連の占領下にあり、放棄が規定された。北海道の一部である歯舞(はぼまい)諸島と色丹(しこたん)島の返還については、ソ連は日ソ平和条約締結時に行い、それをもって領土問題は解決するという立場をとった。日本は、講和条約で南樺太と千島列島を放棄したことを認めたが、国後(くなしり)島・択捉(えとろふ)島は日本固有の領土と主張し、「北方四島」問題は依然として解決されていない。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 1956年、ソ連の拒否で加盟できなかった国連加盟が認められ、日本の国際社会への復帰が実現した。日本はまた、1954年にビルマと国交回復し、1956年にはフィリピンと平和条約と賠償協定を結んだが、中国や韓国・北朝鮮との国交正常化は依然実現できなかった。

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2 基地反対闘争
1)国内体制の再編
 1952年4月、講和条約が国会で批准の承認を受けると、政府は独立国家として、それまでの占領法規にかわる国内の治安維持のための体制整備をすすめた。
 政府は、独立直後の1952年5月1日に起こったメーデー事件をきっかけに、暴力主義的な破壊活動を行う団体の取り締まりを名目にした破壊活動防止法を公布し、調査機関として公安調査庁を設置した。このメーデー事件は、今までの恒例の会場である皇居前広場を政府が許可しなかったことに由来する。総評は政府を相手どって、この不許可を憲法違反として取り消しを求める訴訟を起こし、東京地裁は総評の勝訴の判決をくだしたが、政府は取り消さなかった。メーデーはやむなく明治神宮外苑に会場を移したが、メーデーの行進が到着地点の日比谷公園についたが、さらにデモ隊は皇居前広場(人民広場とも呼ばれていた)に入った。そこへ、突如、武装警官隊の襲撃が開始され、無抵抗な集団に向けて催涙弾とピストルが乱射された。デモ隊側の犠牲者は死者2人、重傷者300人。警察はこの事件に騒乱罪を適応し、1230人余りを検挙した。
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(三省堂「日本史B」より)
 同じ1952年、政府は警察予備隊を保安隊と改称して増強するとともに、海上警備隊を発足させた。また1954年には、教員に対する教育や政治活動についての規制を強め、自治体警察を廃止して、警察庁のもとに都道府県ごとの警察組織を中央集権化した。1953年、朝鮮戦争の休戦協定が結ばれると、翌年、日本の防衛力増強のために兵器などの援助をうける相互防衛援助(MSA)協定がアメリカとの間で調印された。そして同年7月、保安隊と海上警備隊を改組し、自衛隊を発足させた。
2)基地反対闘争
 アジアでの軍事力増強をすすめるアメリカは、日本政府に対して軍事基地の拡張を要求した。1952年、在日米軍が石川県内灘町に試射場の設置を決めると、労働組合を中心に反対運動が起こった。これ以降、各地で米軍基地拡張などに反対する運動が起き、1955年には静岡・山梨両県にまたがる北富士演習場や東京都立川の砂川で大規模な基地拡張反対運動が起こった。沖縄では、伊江島で米軍の土地接収をめぐる反対運動をかわきりにして米軍基地に対する島ぐるみの闘争が広がり、1960年代には祖国復帰運動に発展していった。
3 吉田内閣の退陣
1)反吉田勢力
 吉田首相による再軍備のやり方や、高級官僚を入党させて側近にして政治を行うやり方に対して、公職追放を解除されて政界に復帰した政治家たちは不満を強めた。彼らは、憲法改正と再軍備を主張して、鳩山一郎のもとに集まっていった。
2)吉田内閣の退陣
 吉田首相は政局の混乱を打開するために、1952年と1953年の2度にわたって国会を解散したが、逆に、与党自由党は過半数を割り、第4次吉田内閣の基盤はますます不安定になった。さらに1954年に造船疑獄事件が発覚し、第5次吉田内閣は窮地に陥った。この事件は、池田勇人(はやと)自由党政調会長や佐藤栄作(えいさく)自由党幹事長などが造船会社から賄賂(わいろ)を受け取っていたことが発覚し、検察当局は佐藤幹事長の逮捕を決定した。しかし、吉田首相は犬養法務大臣に、検事総長に対する指揮権を発動させ、佐藤をはじめ池田その他100人におよぶ逮捕予定者がまぬかれた事件である。鳩山一郎らは自由党の反主流派を率いて改進党と合併して日本民主党を結成し、反吉田で一致する社会党の支持をとりつけて、吉田退陣に追い込んだ。

 次回の第74回日本史講座は、3月10日(土)午後2時より行う予定です。

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 Ⅱ 講和・独立から国際社会への復帰
1 講和条約と日米安保条約
1)単独講和と全面講和
 朝鮮戦争が勃発すると、アメリカは日本の独立を急いだが、そのためには、連合国側の国々と講和条約を結んで、日本との戦争状態を終わらせることが必要であった。
 1950年、トルーマン米大統領は対日講和交渉開始の指令を発するとともに、①締結国、②国連加盟、③領土、④安全保障、⑤政治上および通商上の取り決め、⑥賠償請求権、⑦紛争、の7項目からなる「対日講和7原則」を発表した。特に重要な点は「安全保障」の項目で、「日本領域の国際的平和と安全保障を維持するため、日本の施設と米国および他の国々の軍隊との間の協力的責任を継続する」と、日本の基地化とアメリカ軍駐留を主張していた。アメリカは極東委員会に7原則を示し、1951年、アメリカはイギリスとともに、「単独講和」などを内容とする共同草案を作成した。
 この草案をめぐっては、ソ連や中国、東欧諸国、それにインドなどが全面的に反対した。その理由は、対日戦争を最も長期にわたって戦ってきた中国が対日講和から除外されていること、講和後のアメリカ軍の日本駐留を認めていることなどにあった。沖縄では群島議会が日本復帰決議を行い、奄美諸島でも復帰協議会が結成されるなど、日本復帰への運動が高まった。日本国内では、米ソ対立がもたらした朝鮮戦争に日本が巻き込まれることを危惧する空気が高まるなか、学者や社会党、共産党、日本教職員組合などを中心に、ソ連と中国をも含めたすべての交戦国との「全面講和」などを求める大規模な反対運動が起こった。
 1951年9月、サンフランシスコ講和会議が開かれ、日本からは吉田首相が首席全権として出席し、連合国48か国との間で対日講和条約に調印した。招請国のうち、ビルマ・インド・ユーゴスラヴィアは参加せず、ソ連・ポーランド・チェコスロヴァキアの3か国が調印式を欠席した。また日本軍による大きな被害を受けた中国・台湾は招待されず、北朝鮮・韓国は連合国でないので参加資格がなかった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)日米安全保障条約
 講和条約が結ばれた同じ日、日米安全保障条約(日米安保条約)が調印された。この条約は、アメリカは駐留権はもつが日本の安全保障に対する義務を負わない片務条約で、日本の再軍備をも義務付けており、さらに内乱・騒擾(そうじょう)についてアメリカ軍の力を借りることができることを明記した点で、独立国としては例を見ないものであり、条約の有効期限さえ定められていない。アメリカが改定に同意しない限り、日本は永遠にこの権利なき義務を一方的に負いつづけなければならないものであった。さらに日米行政協定でアメリカは日本国内のどこにでも基地を要求する権利をもち、日本は駐留軍の費用を分担する義務を負い、航空・交通・通信およびすべての公共事業について、駐留軍に優先権を認め、駐留軍物資(私用品も含む)の入国については関税も検疫も免除された。刑事裁判については徹底的な属人主義(所属する国の法律に従う)の原則が適応され、駐留軍の軍人・軍属・家族の犯罪には日本の裁判権は一切及ばなかった。
 この条約は、要するに、幕末の不平等条約で認めさせられた治外法権と、関税自主権の喪失と居留地制度(この場合は基地)を、アメリカ軍に認めただけでなく、当時の不平等条約でさえ認めなかった国内旅行自由権や国内雑居権、公共事業の優先利用権を認めたのであった。(小学館「日本の歴史31」参照)

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