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 Ⅲ 世界の変動と日本の課題
1 世界経済の不安定と国際協調
1)経済の国際協調の加速化
 1980年代のアメリカの高金利政策とドル高によって、発展途上国の累積債務問題が深刻になり、1989年には債務の金利減免や債務額の削減を求める提案がG5で合意された。また、1986年から始まったウルグアイ・ラウンドで農業をめぐって、アメリカとヨーロッパや日本が対立するなど交渉が難航する中で、1989年の北米自由貿易協定(NAFTA)や、1992年のヨーロッパ統合(EU)や、ASEAN自由貿易地域(AFTA)などの地域的な経済統合の動きが強まっている。
2)先進国首脳会議(サミット)
 さらに金融の自由化とともに、資金の国際移動が大きくなり、各国による通貨への協調介入が不可欠となり、毎年開催される先進国首脳会議(サミット)などで各国の経済政策の相互調整が必要となっている。
2 冷戦体制の終焉
1)ソ連
 1985年にゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任すると、ソ連ではペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)が推し進められた。破綻した中央指令型の計画経済の立て直しのために市場経済の導入が図られ、政治面では民主化と軍縮が推進された。1987年の米ソ首脳会談でINF全廃(中距離核戦力廃棄に関する2国間)条約が締結され、1988年にはアフガニスタン和平協定が結ばれ、ソ連軍のアフガン撤兵が実現した。1989年には地中海のマルタ島で米ソ首脳会談が開かれ、冷戦の終結が確認された。1991年、保守派のクーデターの失敗によって、8月にソ連共産党は解体し、さらにバルト3国の独立をきっかけに、各共和国は次々に独立し、11の共和国からなる独立国家共同体(CIS)が発足した。
2)ドイツ
 1989年11月にベルリンの壁が取り払われ、翌1990年、東西ドイツの統一が実現し、ソ連によって改革が抑えられていた東欧諸国でも次々と自由化・民主化が進んだ。
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(東京書籍「図説日本史」より)
3 冷戦後の世界と日本
1)冷戦後の世界
 冷戦は終わったが、世界の政治はいぜん不安定な要因を抱えている。中国では経済の近代化が推進される一方、1989年には民主化を求める民衆を軍隊が弾圧するという天安門事件が起き、また、パレスチナ問題はいぜん未解決のままである。
 1990年にはイラクのフセイン大統領によるクウェート侵攻が起き、国連は経済制裁を課し、アメリカ軍を中心とする多国籍軍はイラクに激しい攻撃を加えるという湾岸戦争により、クウェートを解放した。そして、2001年にアメリカで同時多発テロが起きると、冷戦後、唯一の超大国となったアメリカのG.W.ブッシュ大統領は対テロ戦争を宣言し、アフガニスタンを攻撃した。さらに米英軍はイラクを攻撃してフセイン政権を倒した。しかし、イラク攻撃をめぐってドイツ・フランス・ロシアから批判が起きるなど、国際的な安全保障体制は確立されていない。
2)日本の国際的立場
 日本国内では、湾岸戦争の戦費負担をきっかけに、国際平和に対する日本の貢献のあり方をめぐる議論がおき、1992年、政府は国連平和維持活動(PKO)をめぐる法案を通過させ自衛隊をカンボジアに派遣した。また2001年にはインド洋に、2004年にはイラクにも自衛隊を派遣した。今後も平和憲法と経済大国化した日本の国際貢献のあり方について、検討しなければならない課題は多い。
 また、日本には外国人労働者が急激に増加する中、部落差別や在日韓国・朝鮮人に対する偏見や差別をなくすことがますます大切になってきている。女性への差別も、1985年に男女雇用機会均等法が制定されたものの、母性保護という観点からは問題を残している。さらに、フロンガスや二酸化炭素による地球温暖化や原子力発電問題など科学技術がもたらす問題もますます深刻化している。
 2014年7月26日から始まった日本史講座も今日で最終回となりましたが、この講座で日本史が少しは理解できたでしょうか。
次回の歴史講座は、5月26日(土)午後2時より、「生活文化の世界史①」を始めたいと思います。
 
 

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3 55年体制の崩壊
1)自民党内閣の交代
 バブル経済と資産格差が広がるなかで、リクルート事件などの汚職事件がたびたび起こったため、内閣が次々と交代した。
 1987年、中曽根内閣に代わって竹下登内閣が成立し、1989(平成元)年に消費税3%が導入された。しかし、1988年には牛肉とオレンジの輸入自由化が決定され、その後、米の輸入自由化が問題となった。しかし、1988年にリクルート社からの政治家・官僚に対する献金疑惑が発覚し、竹下内閣は総辞職した。
 1989年、竹下内閣に代わった宇野宗佑内閣のもとで行われた参議院選挙では、リクルート問題と消費税の導入、さらに宇野首相の女性問題で自民党は大敗し、その責任をとって宇野首相は退陣したが、この内閣はわずか69日間という史上5番目の短命内閣であった。
 1990年の第1次海部俊樹(かいふとしき)内閣の下で行われた衆議院選挙では自民党が勝利をおさめ、衆議院では与党が、参議院では野党が多数を占めるという事態が生じた。このため、第2次海部内閣は、政治資金の新たな規制や小選挙区制の導入などを柱とする政治改革を行おうとしたが、自民党内部の抵抗にあって辞任を余儀なくされ、1991年に宮澤喜一内閣が発足した。
2)55年体制の崩壊
 1992年にふたたび東京佐川事件という汚職事件が発覚し、日本新党が結党されるなど、既成政党への不信感は一層強まった。そして、1993年に宮澤内閣の内閣不信任案が可決されると、自民党は分裂し、さきがけと新生党が結成された。さらに自民党は総選挙で敗北したため、1955年の結党以来はじめて政権政党の座をおりた。
 代わって、8党派連立による細川護熙(もりひろ)内閣が成立し、政治改革法案を成立させたが、政治資金をめぐる疑惑で辞任を余儀なくされた。つづく羽田孜(はだつとむ)内閣も連立与党内の対立から総辞職し、自民党・社会党・さきがけによる村山富市内閣が、1996年に3党連立による第1次橋本龍太郎内閣が成立した。しかし、政策をめぐる対立から連立が解消され、支持政党をもたない無党派層が増えるなか、同年、自民党単独の第2次橋本内閣が成立した。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 さらに1998年、小渕恵三内閣は、参議院の議席数が野党優勢であったため、自由党・公明党と連立して政権の維持につとめた。そして、自由党が分裂したため、自由党・公明党・保守党の3党連立による第1次森喜朗(よしろう)内閣・第2次森内閣・第1次小泉純一郎内閣がつづいた。さらに保守党が自民党に合流すると、自民党・公明党による連立内閣がつづくなか、2005年、第2次小泉内閣は総選挙で圧勝し、新たに成立した第3次小泉内閣郵政民営化を実現させて、翌2006年に総辞職し、安倍晋三内閣が成立し、教育基本法の改正・防衛庁の省への昇格などを行った。しかし、2007年の参議院選挙で民主党が躍進して参議院の議席数が野党優勢となるなか、安倍首相は辞任し、代わって福田康夫内閣が成立したが、政治をめぐる動きはいぜん不安定である。

 

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2 バブル経済と平成不況
1)バブル経済
 日本経済は、1985年の急速な円高によって、大幅な貿易黒字が生まれたものの、国内では、設備投資が停滞したために、余剰資金が生じるようになるなど、一時的に円高不況に陥った。円高不況によって、地方経済が落ち込む中、東京は国際金融の拠点の一つとなり、政治や経済の情報が集中するにつれ、経済の東京一極集中化現象がますます進むことになった。一方、余剰資金を抱えた企業や銀行などの金融機関は、土地や株式を投機的に買ったり、資金の貸し付けを積極的に行うようになった。そのため、日本国内では、地価や株価・絵画・ゴルフ会員権が急激に上昇し、いわゆるバブル景気をむかえた。土地価格の上昇はすさまじく、当時の東京23区の価格でアメリカ全土が買えるほど日本の土地価格は高騰し、日経平均株価は1989年には、史上最高値38,957円を付けるなどし、資産価格のバブル化が起こっていた。また、対外金融資産にも投資され、日本企業の海外進出も進み、1988年末には日本の対外資産残高は世界第1位となった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2)平成不況
 こうした企業や金融機関の動きによって、資産や所得の格差が拡大していったため、政府や日本銀行が土地への融資の規制や金利の引き上げを行ったため、地価や株価が一転して、急激に下落した。その結果、投機に走った企業の一部は倒産し、金融機関の不良債権問題が表面化し、日本経済は長期にわたる不況に陥ったが、これを平成不況と呼ぶ。この間も、円高が進んだため、輸出が割高になった企業の中には、生産拠点をアジアを中心とした海外に移す動きが強まった。

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 いよいよ最終回となった第77回日本史講座は、5月12日(土)午後2時より受講者6名で行われました。
 Ⅱ 経済大国化のひずみ
1 貿易摩擦の深刻化
1)ドル高への各国の是正対策
 1980年代に入ると、アメリカ経済は軍事費の激増などによって、巨額の貿易赤字と財政赤字という「双子の赤字」をかかえるようになった。とりわけ貿易赤字の要因は日本のアメリカへの輸出拡大にあり、1980年代にアメリカの対日貿易赤字が500億ドルに達した。しかし、現代のアメリカの貿易赤字に比べると、1980年の赤字は微々たるものである。2016年の統計では、対中国の貿易赤字は3470億ドル(約38兆円)、対日赤字は689億ドル(約7.6兆円)である。
 「双子の赤字」により、世界の基軸通貨であるドルへの国際的な信頼も大きく揺らぐようになったため、1985年、米・英・西独・仏・日の先進国5か国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)が開かれ、実情を反映していないドル高を是正するために、為替市場への協調介入が決められた。この合意はニューヨークのプラザホテルで開かれたため、プラザ合意と呼ばれている。G5は、1987年にイタリア・カナダを加えたG7となり、急激なドル安を食い止めることが合意された。
 これをきっかけに急激な円高が進み、為替相場が1ドル=240円から1987年には123円まで上昇し、日本経済は一時的に円高不況に陥った。日本経済は、欧米諸国への輸出を急増させながら、景気の回復をはかった。この結果、欧米諸国との間に貿易摩擦が生まれるようになった。
2)貿易摩擦問題への日本の対応
 対米貿易黒字が急速に増えていったため、アメリカの批判は特に強硬になった。そのため、政府は自動車や鉄鋼・繊維などの輸出の自主規制を実施し、1986年には外国製半導体の日本市場への参入を保障する日米半導体協定に調印した。しかし、対米黒字は一向に解消されず、日米経済構造協議などを通して、アメリカは日本の市場制度や取引慣行から経済政策全般にまで批判のほこ先を向け、原則として1年以内に改善されないと、報復措置をとると宣言した。また、世界経済が不安定さを増していく中で、巨額の貿易黒字を抱える日本に対する国際的な資金協力の要求も高まっていった。
 1985年以降、日本の政府開発援助(ODA)費は急速に拡大し、1989年にはアメリカを抜いて世界第1位となった。そのため、貿易や資本投資などを通して、アジア諸国との経済的結びつきが一層強まることになった。
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(三省堂「日本史B」より)

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