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 2018年11月26日(月)、今回で3回目となった京都トレイルは、参加者が一人増え、計6名のメンバーでチャレンジしました。
自宅を6時50分に出発し、光明池から天下茶屋で地下鉄に、北浜で京阪電車の出町柳へ、そこから叡山電鉄で八瀬比叡山口へと向かった。八瀬比叡山口の駅には、紅葉狩りに来た大勢の観光客がいた。
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(八瀬比叡山口駅前)
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(八瀬比叡山口駅構内)
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(八瀬比叡山口周辺)
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(八瀬比叡山口周辺)
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(八瀬比叡山口周辺)
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(八瀬比叡山口周辺)
 八瀬比叡山口駅からケーブルカーに乗って今回の出発地点へと向かった。ケーブルカーから見えた景色も素晴らしかった。
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(ケーブルカーから見た景色)
 ケーブルカーから降りた地点には、京都トレイル北山コースの標識がある。
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(北山コースの標識)
 私たちは予定通りに午前10時に出発した。しばらく歩くと、比叡山から下界が霞んで見えた。
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(山から見えた下界)
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(山から見えた下界)
 山道を歩いていると延暦寺の境内に入った。
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(延暦寺境内の石碑)
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(延暦寺境内の参道)
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(浄土院拝殿)
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(延暦寺境内の参道)
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(箕淵みのふち弁財天社)
 さらに山道を歩いていると大きな杉が見えた。これは「玉体杉」と呼ばれる杉で、「千日回峰行者はここで止まって、御所に向かい玉体加持(天皇のご安泰をお祈りする)をします。」という説明文が「玉体杉」の横に書かれている。
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(玉体杉で記念写真)
 私たちは険しい山を登ってようやく横高山に到着したが、時刻は午前12時を過ぎていた。
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(横高山で記念写真)
 私たちはここでゆっくりと昼食をとり、水井山に向かった。標高794.1mの水井山に到着したのは午後1時30分頃であった。
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(水井山の標識)
 私たちは水井山から45分かかって午後2時14分に仰木峠に到着した。
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(仰木峠の標識)
 仰木峠を越えて歩いていると綺麗な北山杉が見えてきた。
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(北山杉)
 仰木峠から1時間4分かかって午後3時18分に戸寺(とでら)に到着した。
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(戸寺の標識)
 私たちは戸寺から八瀬大原ののどかな景色を見ながら、三千院に向かった。
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(大原の風景)
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(大原の風景)
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(大原の風景)
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(大原の風景)
 私たちは戸寺から50分ほどかかてようやく三千院に到着した。
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(三千院周辺)
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(三千院周辺)
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(三千院周辺)
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(三千院)
 私は何十年ぶりかで三千院を見学したが、三千院の庭はとても綺麗だった。
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(三千院の庭)
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(三千院の庭)
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(三千院の庭)
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(三千院の庭)
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(三千院の庭)
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(三千院の庭)
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(三千院の庭)
 私たちが三千院を出たのは午後5時前だった。私たちは三千院からバスで出町柳に行き、そこから京阪、地下鉄、南海電車を乗り継いで、我が家に到着したのは、午後8時前だった。   
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Ⅱ 枢軸の形成と国際関係の緊張
1 イタリアのエチオピア侵略
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資料⑤(第一学習社「最新世界史図表」より)

上の資料を参考にして次の問題に答えよう。
問⑭ エチオピアを侵略した国はどこですか。
また、侵略の背景には何がありましたか。
問⑮ エチオピア皇帝は侵略に対して国際連盟に提訴したが、なぜ効果を上げることができなかったのですか。
問⑯ エチオピアへの侵略はその後の歴史にどのような影響を与えたか調べてみよう。
(解説)
 イタリアのムッソリーニは、世界恐慌で経済がゆきづまると、対外膨張政策をおしすすめようとしたが、バルカン半島や地中海は列強の勢力が強かったのでエチオピアを侵略の対象とした。当時のエチオピアはアフリカで数少ない独立国であり、列強の支配をまぬがれていたためである。1935年、イタリアがエチオピアに侵入すると、エチオピア皇帝は国際連盟に訴え、連盟はイタリアへの経済制裁を決議した。しかし、強制力を持たず、また国連未加盟のアメリカから石油を輸入できたため経済制裁は不徹底に終わり、1936年、イタリアはエチオピアを併合した。国際的に孤立したイタリアはドイツに接近し、1936年、ベルリン=ローマ枢軸と呼ばれる協力関係が成立した。同じ1936年、日独防共協定が成立し、1937年にはイタリアも加わわって三国防共協定が成立し、ファシズム諸国間の結びつきが強化され、イタリアは国際連盟から脱退した。
【課題】
①満州事変の背景には、日本の戦後恐慌・関東大震災・昭和恐慌による農村の疲弊などを打開するために対外侵略へと進んでいったと授業展開しているが、果たしてそれでいいのか。明治維新以降の日本の近代史は、日清・日露・第一次大戦・シベリア出兵など経済的背景に関係なく他国を侵略していった。日本の軍部は、チャンスがあればいつでも対外侵略を狙っており、満州から中国全土への侵略はむしろ軍部の方針であったのではないか。そして戦争を拡大することによって戦争に勝つための政治体制づくりを進め、日本は軍国主義体制を確立していいったのではないか、これについて議論をしてほしい。
② 日本人は戦争に対して被害者意識は強いが、加害者意識は非常に弱いと思われる。そこで南京事件を取り上げ、なぜこのよう蛮行が日本軍によって行われたのかを生徒に考えさせる必要があると思われるが、これについて議論してほしい。
③ なぜ日中戦争のつぎに突然イタリアのエチオピア侵略へと授業を進めていくのか、授業の構成について議論をしてほしい。


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3 日中戦争と民族統一戦線
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資料④A(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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資料④B(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
問⑫ 資料④Aの写真は日本軍が中国の首都南京を占領した写真である。さて、日本軍が中国との全面戦争を始めるきっかけとなった事件は何ですか。なぜ日本軍は中国との全面戦争に突き進んでしまったのかを考えてみよう。
問⑬ 資料④Bは南京占領時に日本軍が行った蛮行の写真であるが、これは何と呼ばれているか。また、何人の人達が犠牲となったのか。また、なぜこのような蛮行が行われたのかを考えてみよう。
(解説)
 1937年7月7日、北京郊外で日中両軍が衝突した盧溝橋事件が起きると、日本軍は華北の支配をねらって戦火を拡大した。これに対抗して中国では、第2次国共合作が発表され抗日民族統一戦線が成立した。日本は、満州事変と同じように中国を簡単に屈服させることができると考えていたが、中国の抵抗は強力であった。日本軍は北京と天津を、8月には上海を占領したが、中国国民の抵抗は激しく、国民政府の首都である南京占領にさいし暴行・略奪と蛮行を繰り返したがこれを南京事件(南京大虐殺)と呼ぶ。その犠牲者の数については諸説あるが、日本の歴史学者の中には、4万人、あるいは20万人をくだらない数をあげているが、中国側は30万人以上としている。また、犠牲者には捕虜や婦女子など無抵抗の非戦闘員も多かった。このような蛮行が行われた背景には、日本軍の補給は現地調達で賄うという日本軍のやり方があるとともに、日本軍の中には中国人の人権を無視する差別意識があったのではないかと思われる。このような蛮行に対し、世界から強い非難をあびたが、日本国民は敗戦までこの事実を知らされなかった。南京を占領して勢いにのる日本は、1938年、中国政府を交渉相手にしないという声明をしたが、実際にはおもな都市と鉄道線を確保する点と線の支配でしかなかった。中国政府は武漢からさらに重慶に首都を移して抗戦を続け、広大な農村地帯には共産党軍が農民に支持を広げて抗日根拠地をきずいていった。さらに、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の各国は、ヴェトナム・ビルマなどからの援蒋ルートをとおして中国政府支援を強化していった。そのため、日本は軍事的にも経済的にも戦争の継続が困難となり、1940年には国民党副総裁だった汪兆銘によるかいらい政権をつくって打開に努めたが、支持は広がらず、日中戦争は泥沼状態におちいり、国際的にも孤立していった。

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(資料② 東京法令「日本史のアーカイブ」)
上の地図を参考にして、次の問題に答えよう。
問③ 「満州国」建国のきっかけとなった事件とは何ですか。
問④ それは誰が何の目的で起こしたのですか。
問⑤ 日本が、列強の非難を満州からそらすために起こした事変とは何ですか。
問⑥ 「満州国」を建国するために擁立された皇帝は誰ですか。また、この国家の実権を握っていたのはどのような人たちですか。
(解説)
  父張作霖のあとを継いだ張学良は中国政府に合流し、日本の利権を回収しようとした。そのため、日本の軍部、なかでも満州に駐留する関東軍や在留日本人らは危機感をつのらせ、1931年、満州北部で中村震太郎陸軍大尉が中国軍に射殺された事件や、吉林省で入植した朝鮮人農民と中国人農民とが水利工事をめぐって衝突した万宝山事件を利用して、満州は日本の生命線であると宣伝し、国民にその重要性を訴えた。そして、1931年9月18日、関東軍の板垣征四郎・石原莞爾らは奉天郊外の柳条湖で満鉄線路を爆破させたが、これを柳条湖事件と呼ぶ。関東軍は、これを中国軍が起こしたとして、いっせいに中国軍に攻撃をしかけ、満鉄沿線の主要都市を次々に占領していったが、これを満州事変と呼ぶ。中国では日本への猛反発が起こったが、中国政府は不抵抗の方針をとり、国際連盟に提訴した。さらにアメリカが日本の行動をきびしく批判するなか、国際連盟はリットン調査団を日本・中国へ派遣した。そのため、軍部は、1932年に国際社会の目を満州からそらす目的で、上海で海軍陸戦隊を中国軍と衝突させた第1次上海事変を引き起こした。そのうえで、1932年、清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を皇帝とする「満州国」を建国し、長春を新京と改めて首都とした。しかし、国家の実権は日本の軍人や官僚が握ったかいらい国家であった。
2 日本の華北侵略と中国の内戦
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資料③(文英社「理解しやすい世界史B」より)
上の地図を参考にして、次の問題に答えよう。
問⑦ 地図上に青く塗られている中国共産党の長征の出発点と終着点の都市名をあげなさい。また、その距離はいったいどのくらいあったと思われますか。
問⑧ 中国共産党が長征を行った理由は何ですか。
問⑨ 長征の過程で実権を握った人物は誰ですか。
問⑩ 中国共産党は国民党政府に抗日民族統一戦線の結成を呼びかけたが、この宣言を何と呼びますか。
問⑪ 1936年、これに同調した張学良らが蒋介石を監禁し、抗日への政策転換を求めた事件を何と呼びますか。
(解説)
  1933年、日本は国際連盟を脱退し、さらに華北にも侵略をすすめるようになった。同年、日本軍は熱河省と河北省を攻略し、河北省東部を非武装地帯とする塘沽(タンクー)停戦協定を中国と結んだ。1935年には、華北5省を中国から分離する工作を開始し、冀東(きとう)防共自治政府などのかいらい政府をつくった。しかし、蒋介石は国共内戦に力を入れ、1934年には中華ソヴィエト共和国臨時政府の根拠地の瑞金を占領した。一方、中国共産党軍は瑞金を放棄し、国民党軍と交戦しながら、にかけて1万2500kmを徒歩で移動し、1935年に陝西省北部に到達したが、これを長征と呼ぶ。長征の過程で毛沢東が実権を握り、延安を新たな根拠地として活動を再開した。この間、中国共産党はコミンテルン代表の人民戦線戦術の影響を受けて、内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成を呼びかけたが、これを八・一宣言と呼ぶ。これは大きな反響を呼び、1936年、これに同調した張学良らは西安で蒋介石を監禁し、抗日への政策転換を求めたが、これを西安事件と呼ぶ。この事件の解決に共産党の周恩来が協力し、さらに共産党が地主の土地の没収政策を停止するなどの政策転換を発表したので、この事件をきっかけに国共関係は好転した。
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【授業のねらい】
 Ⅰ 日本軍国主義の台頭と日中戦争
① なぜ満州事変が起こされたのか、また満州国とはどのような国家であったのかを理解させる。
② 長征とは何か、また、八一宣言の影響を受けて抗日民族統一戦線が結成された経過を理解させる。
③ なぜ日中戦争が起こされたのか、また、戦争の過程で、なぜ南京大虐殺が起こされたのかを考えさせる。
④ なぜイタリアはエチオピアを侵略したのか、その結果世界はどのように変わっていったかを理解させる。
【授業展開】
 Ⅰ 日本軍国主義の台頭と日中戦争
1 日本の植民地支配と満州侵略
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資料①A((小学館「日本の歴史30」)
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資料①B(小学館「日本の歴史30」)
問① 上の資料①のAとBの写真はいつの時代でしょうか。また、それぞれ何を表しているでしょうか。
問② なぜこのような悲惨な状態が生まれたのか、その歴史的背景について調べてみよう。
(解説)
第一次世界大戦で好況をつづけた日本も、戦後の不況と関東大震災で大きな打撃を受けた。1929年に世界恐慌がおきると、その打撃は農村において最も深刻であった。家計を助けるために都市に出稼ぎに出ていた農村出身の労働者は職を失って帰村したうえ、米価をはじめ農産物価格の暴落によって農家経済は苦しくなった。とくに生糸の輸出が激減したため、繭の価格が暴落し、農村の副業である養蚕業は壊滅的な打撃を受けた。1932年の農林省の調査によると、新潟県では、年頃の娘がいなくなると、小学生の児童までも売る傾向が増えてきた。子供の値段は尋常3年くらいで100円、卒業したもので400円といった状態であった。また、文部省の調査によると、農漁村の欠食児童は、北海道1万899、青森の6107、秋田の996、岩手の3539という人数に達し、全国の欠食児童は20万人を突破するという状態であった。(小学館「日本の歴史30」)資料①の大根をかじる欠食児童は昭和9(1934)年の岩手県遠野の上郷村で撮影されたものである。
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 私たちは塔のへつり駅に10時10分に到着したが、駅周辺は紅葉で綺麗だった。
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(駅周辺の風景)
 塔のへつりの「へつり」とは「川に迫った断崖や急斜面」という意味の会津の方言である。川の流れや風雨により浸食・風化を繰り返して造り出された景勝地で、国の天然記念物にも指定されている。
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(塔のへつり)
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(塔のへつり)
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(塔のへつり)
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(塔のへつり)
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(塔のへつり)
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(塔のへつり)
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(塔のへつり)
 塔のへつりはたくさんの観光客で混んでいたが、外国人とりわけ台湾の観光客が多かった。塔のへつりの観光はわずか30分で切り上げ、次の目的地である大内宿へとバスで向かった。
 バスは30分ほどで大内宿に到着した。案内書によると、「大内宿は、南会津の山中にあり、全長約450mの両側に、寄棟造(よせむねづくり)の民家が建ち並ぶ。江戸時代には会津西街道の「半農半宿」の宿場であったが、現在でもその雰囲気をよく残し、田園の中の旧街道沿いに茅葺き民家の街割りが整然と並んでいる。」と書かれている。昼食はフリーで、この大内宿で食べることになっている。ガイドさんによるとここの名物は「ねぎそば」で、大きなねぎでそばを食べるとのことである。しかし、今日は大変混雑しているので、空いているお蕎麦屋さんで早く食べてくださいと言われた。私たち夫婦は早速、空いているお蕎麦屋さんで名物の「ねぎそば」を食べることにした。
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(ねぎそば)
 ねぎでおそばを食べるのは難しく、私たちは箸を使って食べた。ねぎをかじりながら食べろと言われていたので、ねぎをかじるとねぎの苦さが口に残り、そばのおいしさを感じることができなかった。
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(お蕎麦屋さん)
 おそばを食べた後、大内宿を散策した。
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(大内宿)
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(大内宿)
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(大内宿)
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(大内宿)
 私たち夫婦は、「ねぎそば」を食べた後、口の中にねぎの苦さが残っていたので、口直しに団子を食べることにした。
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(団子屋さん)
 大内宿を見学した後、私たちはバスで上越妙高まで戻り、北陸新幹線とサンダーバードを乗り継いで家に到着したのは午後11時近かった。 
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 山寺・立石寺を見学した後、私たちはバスで行きと同じコースをたどって磐梯山温泉に戻り、そこで宿泊した。二日目のホテルは星野リゾートであった。ホテルの大きさは一日目の裏磐梯レイクリゾートよりも小さかったが、食事が美味しかったのと、各種のサービスが良かった。
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(星野リゾート 磐梯山温泉)
 私たち夫婦は、そのサービスの一つである星の観察と、早朝の夜明けの散歩に参加した。星の観察は、ホテルの近くにあるゴルフ場に入り、スタッフが星座の説明をしてくれたが、予想以上に星座が綺麗に見えた。翌朝、私たち希望者全員でホテルの前で簡単な体操をした後、早朝散歩へと出かけた。場所は昨晩の星の観察と同じゴルフ場だった。あいにく霧が出ており日の出を見ることができなかったが、霧にかすむ磐梯山が見えてきた。
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(霧にかすむ磐梯山)
 しだいに霧が晴れてきて、ゴルフ場の落ち葉の絨毯が綺麗に見えた。
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(落ち葉の絨毯)
 スタッフの話では、磐梯山がこのように朝霧にかすむ景色は珍しいと、スマホで写真を撮っていたが、しだいに霧が晴れてきて池もかすかに見えてきた。
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(霧にかすむ磐梯山と池)
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(霧にかすむ磐梯山)
 早朝のゴルフ場も綺麗に見えてきた。
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(早朝のゴルフ場)
 早朝散歩を終えてホテルに戻る途中、ホテルのスキー場のゲレンデが綺麗に見えた。
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(ゲレンデ)
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(ゲレンデ)
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(ゲレンデ)
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(ホテルの横の並木道)
 早朝散歩を終え、私たちは午前8時20分ごろに集合し、バスで芦ノ牧温泉駅へと向かったが、1時間足らずで駅に到着した。
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(芦ノ牧温泉駅)
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(駅の内部)
 この駅は会津鉄道の駅で、猫の駅長さんとして有名だそうだ。猫の駅長はいたが、撮影は禁止とのことだった。
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(猫の駅長さん)
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(駅の周りの風景)
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(駅の周りの風景)
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(駅の周りの風景)
 駅のホームで20分ほど待っていると、ようやく列車がやってきた。
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(会津鉄道の列車)
 私たちはこの鉄道に乗って塔のへつり駅へと向かった。私たちのバスはそこの駅で待っているのだから、この鉄道に乗ることが目的なのである。
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(駅の案内)
 私たちは芦ノ牧温泉駅から塔のへつり駅まで乗る。駅の案内図の青い駅は無人駅とのことだ。
 列車は途中の景色のいい鉄橋の付近では何回も停車してくれた。
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(列車から見える風景)
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(列車から見える風景)
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(列車から見える風景)
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(列車から見える風景)
 列車は30分足らずで塔のへつり駅に到着した。
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(塔のへつり駅) 
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 私たちは五色沼の一つである毘沙門沼を見学した後、午前11時前頃にバスで山形県にある立石寺(りっしゃくじ)別名山寺を目指して出発した。バスは東北自動車道から山形自動車道に入り、山寺に到着したのは午後12時を過ぎていた。途中、バスガイドさんが高村光太郎の詩集『智恵子抄』を紹介してくれた。光太郎の奥さんとなった智恵子の実家が福島県にあり、詩集に出てくる阿多多羅山(現在の安達太良山)を私たちはバスの中からかすかに見ることができた。この詩集は、私が高校時代の国語の教科書に載っていたもので、「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」や「智恵子は東京に空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。」という詩は、今でも覚えている。ガイドさんの話や歌はとても上手でみんなを感動させた。
 私たちはバスを降りてすぐに昼食を済ませ、添乗員さんからもらった案内図を頼りに山寺・立石寺へと向かった。立石寺は、「天台宗に属し、創建は貞観二年(860年)天台座主第3世慈覚大師円仁によって建立されました。」と書かれているが、大変古く、由緒あるお寺である。
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(山寺史跡名勝案内図)
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(登山口)
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(立石寺本堂)
 本堂の近くには芭蕉と曽良の像があった。
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(芭蕉の像)
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(曽良の像)
 途中、芭蕉が立石寺を訪れた由来や、芭蕉の俳句「閑かさや岩にしみいる蝉の声」をつくるいきさつなどが書かれた立札があり、そこには、「芭蕉翁の句をしたためた短冊をこの地に埋めて石の塚を立てたもので蝉塚といわれている。」と書かれていた。
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(蝉塚)
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(阿弥陀洞)
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(阿弥陀洞)
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(仁王門)
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(仁王門と観明院)
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(性相院)(しょうそういん)
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(開山堂)
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(五大堂)
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(開山堂と五大堂の解説)
 五大堂は展望台となっているとガイドさんから教えてもらったが、そこから見える景色は素晴らしかった。
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(五大堂から見た景色)
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(五大堂から見た景色)
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(参道)
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(立石寺から見た山の景色)
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(奥の院)
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(三重小塔)
 私たち夫婦は午後2時過ぎに山寺から降り、寺の近くにあるJRの山寺駅を見に行った。
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(山寺駅)
 駅に向かうときに列車が走っていった。
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(山寺駅から走っていった列車)
 駅には展望台があり、そこから山寺が見えた。
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(駅の展望台から見た山寺)
 私たちは駅を見た後、バスの駐車場へと戻ったが、その途中に見た景色は綺麗だった。
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(山寺周辺の景色)
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私たちが宿泊した磐梯山温泉ホテルは、五色沼のすぐ近くにある立派なホテルだった。
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(裏磐梯レイクリゾート)
 私たち夫婦は朝食後、散歩に出かけた。最初にホテルのすぐ横にある桧原湖を眺めた後、五色沼へと向かった。
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(桧原湖)
 私は学生時代に磐梯山に登った後、五色沼を散策したのを覚えているが、ちょうど50年前のことである。当時は夏休みであったが、秋の五色沼は素晴らしかった。
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(五色沼周辺)
 最初に見た沼の名前は青沼だ。
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(青沼)
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(青沼)
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(青沼)
 次の沼は弁天沼だ。
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(弁天沼)
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(弁天沼)
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(弁天沼)
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(弁天沼)
 五色沼という名の通り、沼はさらに深泥沼・毘沙門沼・弥六沼などがある。残念ながらバスの出発時間に間に合わなくなるので、朝の散歩はここで終わり、私たちはホテルへと戻った。
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(裏磐梯レイクリゾート)
 私たちは8時20分にバスに集合し、最初に五色沼で最も大きい毘沙門沼へと向かった。毘沙門沼にはもう観光客が多数いたが、なかには台湾からの観光客もいた。
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(毘沙門沼の前で写真を撮る台湾の観光客)
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(毘沙門沼)
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(毘沙門沼のあらまし)
 五色沼には魚はほとんどいないが、この沼には大きな鯉が泳いでいた。
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(毘沙門沼の鯉)
 夏には貸しボートで遊ぶのであろう、たくさんのボートが並べて括られていた。
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(毘沙門沼の横に括られたボートがある)
  この沼の近くには芭蕉の「奥の細道」のなかにある俳句の石碑があった。
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(芭蕉の俳句の石碑)
 俳句の意味は、ウィキペディアによると「義経の太刀や弁慶の笈(おい)などをみると、これから訪ねる平泉の悲劇が想われる。いま、薫風香る五月。笈も太刀も五月の風に吹かれてみよ。結句紙幟は座敷に飾る紙製の幟旗」と書かれている。義経は弁慶を伴って奥州平泉へ落ちのびていくが、笈とは弁慶が仏教の経典などを背負った道具のことである。東北旅行ではあちこちに芭蕉の俳句に出会うが、これから行く山形県の山寺・立石寺でもそうだ。
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(南東北旅行関連地図)

 私たち夫婦は、11月1日から「JTB旅物語南東北ベストハイライト3日間」のツアーに参加してきました。参加者は38名で年配者が多く、京都からは女性ばかりのカメラ愛好家のグループも参加されていた。 私たちは大阪駅から特急サンダーバード5号で7時40分に出発し、予定より10分ほど遅れて金沢に10時35分頃に到着した。金沢で北陸新幹線はくたか560号に乗り換え、10時56分に出発し、上越妙高に11時58分に到着し、そこから越後交通の観光バスに乗り、目的地の会津若松・鶴ヶ城に到着したのは午後3時30分頃だった。バスのガイドさんは新潟の人で、若く見えたがベテランでなんでもよく知っており、私たちの3日間の観光地巡りを上手に案内してくれた。
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(会津若松・鶴ヶ城)
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(会津若松・鶴ヶ城)
 
 鶴ヶ城の天守閣から見た景色は最高だった。
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(天守閣から見た景色)
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(天守閣から見た景色)
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(天守閣から見た景色)

ガイドさんやウィキペディアによると、鶴ヶ城は地元の俗称で、正式名は若松城である。その由来は1384年、蘆名氏(あしなし)7代当主の蘆名直盛(なおもり)が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。1589年、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。しかし、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷(がもううじさと)で、1592年より大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備して町の名を若松に改めた。 
 若松城が有名となったのは、1868年の戊辰戦争である。新政府に反発した会津藩は1か月間も若松城に籠城したがついに開場された。この戦争の時に有名となったのが白虎隊で、戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。白虎隊が 立てこもった場所が飯盛山で、白虎隊は町が燃えているのを城が燃えていると間違えて自刃した場所でもある。私は学生時代にこの山に登り、そこに白虎隊の人達が眠るお墓を見学したことを鮮明に覚えている。天守閣には飯盛山と案内されていたがよくわからなかった。
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(飯盛山か)
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(飯盛山か)
 鶴ヶ城には「荒城の月」の碑があった。
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(「荒城の月」の碑)
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(「荒城の月」の石碑)
  ここに石碑があるのは、「荒城の月」の作詞家土井晩翠が学生時代にこの城に訪れたことがあったからである。
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