人気ブログランキング | 話題のタグを見る
 [2]
「日清戦争」の敗北は中国社会にどのような影響を与えたか
孫文(中国革命の父)③_a0226578_443660.jpg
(開港後の上海には、新たな資産家が生み出された。子どもたちをアメリカに留学させ、また、孫文の革命運動を熱心に支援した。その子どもたちとは、長女の宋靄齢(そうあいれい)、次女の宋慶齢(そうけいれい)、長男の宋子文(そうしぶん)、三女の宋美齢(そうびれい)にほかならない。長女は上海の財閥の御曹司であった孔祥熙(こうしょうき)と結婚した。次女の宋慶齢は、辛亥革命後、袁世凱(えんせいがい)にやぶれて日本に亡命していた孫文と結婚し、一生を中国革命にささげた。三女の宋美齢は、孫文の後継者となった蒋介石と結婚し、アメリカの政界とのパイプ役を果たした。孫子文は南京国民政府の財政部長として活躍したが、人民共和国の建国後はアメリカで過ごした。宋家の三姉妹の人生は、国際的な経済生活の広がりとともに中国社会が大きな変貌をとげ、同時に国民党や共産党による激しい革命運動が展開した近代から現代の歴史を文字どおり凝縮してしめす劇的な家族史をえがきだした。(東京書籍「新選世界史B」より)
(資料2)
 日清戦争を契機に民族的危機が加速的に深まるなかで、中国人の側にもこの危機を打開しようとする種々の動きが生まれる。それらは、次の三つに大別できよう。一つは、敗戦とその後の列強の侵略激化によって危機意識を強めた知識人の中から、清朝支配体制の存続を前提としつつも、政治・経済・ 社会・文化の各分野にわたる抜本的改革によって、列強の脅威に対抗しうる近代国家の実現を模索しようとする改良主義の運動である。康有為らの変法運動はその中核をなすものであった。二つには、同様の危機意識から出発しながらも、しかし清朝の下での「改革」はもはや不可能とする認識から、現政権の打倒をさしあたっての課題とする革命運動である。孫文の場合はこの流れの中心に位置していた。三つには、列強の侵略と清朝支配の下にもっとも過酷な収奪を受けていた民衆が、困窮の原因のすべてを「洋人」の存在に求め、その重圧を排除すべく展開した一連の排外運動である。このもっとも突出した形で行動化したのが義和団運動であり、民衆独自の力量によって構築した反帝国主義運動として高い評価が与えられている。(堀川哲男『人類の知的遺産 孫文』講談社)
(解説)
  康有為らの変法運動は、1898年に西太后らの保守派の弾圧で失敗した。しかし、康有為らの改革派はあくまで立憲君主制を主張して、孫文らの革命派とは提携することはなかった。それは、康有為らが科挙試験を合格した高級官僚であったことや、諸外国についての知識がほとんどなかったことにより、2千年間続いてきた君主体制を打倒して、共和政を打ち建てるなど思いもよらないことであったのだろう。これに対し、孫文は貧農出身で、しかも外国教育を受けており、君主体制にこだわることがなく共和政を主張できたのであろう。しかも清朝が異民族王朝であったことが、孫文を清朝打倒へとかりたてたのである。1894年にハノイで設立した「興中会」の入会者には、「満州族を駆除し、中国を回復して、合衆国政府を創立する」と宣誓し、革命への決意を明らかにしたのである。「興中会」を組織した孫文は、日清戦争の敗北による混乱を利用して、広州で武装蜂起を計画したが失敗し、亡命生活をよぎなくされる。しかし、亡命生活は孫文にとって無駄ではなかった。特にロンドンでの体験と勉学が、三民主義を生み出すのである。
孫文(中国革命の父)③_a0226578_4404111.jpg
左が西太后(せいたいごう)(1835~1908)右が康有為(こうゆうい)(1858~1927)(東京法令「世界史のミュージアム」より)
# by YAMATAKE1949 | 2012-09-04 04:09 | 人物世界史